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小久保テル子・石橋あや子・内藤弘子
伊良湖地区周辺で生まれ育った仲良し3人組。小久保さんは学生のときに戦争を体験。戦時中、豊川用水ができる前とできた後、伊良湖の暮らしの変化をずっと見てきたこのまちの生き字引。
昔の暮らしって本当に哀れなもんでのう。
若い人も関心はないよね。豊川用水ができる前は、ここらは砂畑だもんで、水がかからんもんだ。田んぼでも掘って植えたりしただもん、手で。枯れちゃったりなんかしただよ。
陸軍地っていって、陸軍の試砲場があるでしょ。それでこっちが伊良湖の土地だったんだけど、その陸軍地を払い下げてもらって、伊良湖の村もなかなかちょっと裕福になってきたで、その前はここらへんなんか本当に本当に貧乏だったわよ。
学徒で豊川に挺身隊で行っとったぐらいだもんだ。昭和3年、本当の大昔で、おかゆをすすっとったような時だもんね。
私らは機関銃の弾を穴開けとったのよ。学徒で行っとるもんだ。学校の先生も行っとるもんで。夜は勉強もせにゃならんし。3勤交代で、朝8時から8時間働いて、またその真ん中はまたその次の人が働いて、それで夜中もそういうふうにして働いて、勉強なんてしたもんじゃないんだ。
支那事変が昭和13年に始まって、その時に10歳だもんだね。それでハワイで真珠湾攻撃やっちゃったもんだ。バカチンだったのう。本当に。それから戦争が始まって、昭和20年の8月15日が終戦だもんで、13年から20年の8月まで戦争ばっかりして。挺身隊に行ったり、そういうことしたんだ。本当にね。
負けるのわかっとるのに、東京じゃ「どこそこを占領した、どこそこをあれした」って嘘をこきながら提灯行列やっとっただよ。私はそれを信じておったもんよ。勝利の日まで勝利の日までって言って、日の丸の旗のハチマキをこう縛って、それで学徒だもんだい、みんな四列に並んで、海軍さんの偉い人らが来ると、「頭右(かしらみぎ)」って言って。その人の合わせで、「歩調(ほちょう)取れ」って言ってね、そういうこと、兵隊と同じことをやってきたんだよ。
ここらの村もバスが走って、手を挙げや止まってくれおっただけど、わしらが海軍工廠行っとる時は、堀切からでなきゃ乗れなんだもんだ。
自転車とかね。
そうだね。私が3年生だったんだよね。
自分には本がなかったね。その時はもう戦争が始まっているもんで。先生がね、謄写版(※ロウを塗った原紙(ろうげんし)に鉄筆(てっぴつ)で文字や絵を書き、鉄筆で削られた部分にできた微細な穴からインクを転写して印刷する)で刷ってね、くれとった。まあ、本当にようここへ生きてこれたかなと思うぐらい。何にも勉強って言うほどの勉強はせやぁせんだもん。
1年生から4年生まで戦争で、それであっち行ってこっち行って走って各部落で学校を作ってね。それでやっとった。
学校でも芋の苗をもらって芋を植えたりして、作業に出ただけで優良可がつくぐらい。
それで中学校になると、そこを開墾して、学校でこうやって作業して。高校行ったらまた山の中を開墾したところで。何にも勉強せやせんよ。
学校へ行くと言うといじこ(※母親が農作業をする際に乳幼児を入れて寝かせておいた、藁(わら)や木で作られたかご)を持ったり、棒を持ったり。そのぐらい勉強せなんだもんね。
それでも1足す2は3っていうことは分かるでぇの。
私の姉は豊川工廠まで行っとるけどね。爆撃に遭ったんだけど、みんな玄関へ逃げた人たちは亡くなっちゃって、私の姉たちは裏の山へ逃げたもんだよ。助かって。そこから歩いて家へ帰ってきた時は2時だよ、夜中の。歩いて帰ってきた。
車なんか乗らんもんだよね。どこへ行くでも歩く。
それで耕運機もトラクターもないもんで。こうやって全部手でやったと思うんだよね。それなんで腕も丈夫だし、もう100才までも生きちゃあ困ったやと思って。
やっぱりあんまり甘やかして育てても勉強が頭に入らんね。
これをやらなきゃならんけど、この仕事もあの仕事もしなきゃならん中で勉強するもんで頭に入るだと思う。
学校ものう、今の子は行かんとかある。百姓の忙しいときとかは「学校やめて手伝ったら?」そう言われるだもんだ。学校も休みになるし、忙しいときはやめて手伝えぐらいだもんだ。どうしてもそんな学校に通ってほしいんじゃない。行きたいから行くもんだ。
うちが忙しくて子供が大勢いると、学校でも小さい子供を連れてきてもいいよって、子供連れて行く人もおった。それぐらいだと思うんだ。どうしてもみんなについて行くには勉強せにゃあついて行けやせんしね。
まあ、裕福な人もあったもんだよね。でも50銭貯金をするという人はちょっと珍しかったぜ。わしらの小学校の時の、50銭貯金する人はよっぽどおらんかったねえ。小遣いが10銭だもんね。
御衣祭(おんぞまつり)っていうのがあるんだけど、ちょっとお金を使うと学校の先生がいくら使ったって言って調べるもんで、ちょっと高いものが欲しいなと思うと、うちのものを呼び行って使ってもらうというようなのだったんだよ。
1円で飴玉が6つぐらい買えたな。
芋だけだ。芋をゆでてカマドの中へうちのものが入れておいてくれると上っ側が焼けてちょっと香ばしくなる。それを学校から帰ってきて懐に入れて、みんなと遊びに走りまわっとった。本当にそうだったよ。貧しい世の中を過ごしてきただよ。今やなんか天国だがねぇ。食べるもんなんか。もったいない。バチが当たらぁ、ほんとに。
夏はまあ、泳ぎに行くのがあったね。
みんなで遊んではおったけどね。
伊良湖はのう、泳ぎ行けんだよ。試砲場からの弾が来るもんね。大砲の弾の距離を測るもんで。それだもんで、今日はこっちの浜の方へは入っちゃいけませんって。あそこの高いちょっぷり山、ちょっぷり山って私ら言うんだけど、そこに赤旗が上がるもんで、そうすると入れやせん。番人がおって「行っちゃいかん」ってこうするもん。
本当に貧しくてな。海へ行けりゃ海へ行くか、そうでなかったら山で遊ぶか、冬になると、山に小グミって言ってグミの小さいやつがあるんだ、それをちぎってきて食べる。
昔はね、山の入口を大人が刈って炊き物にしたからね。火を焚いて何でもやったんだから。綺麗だった。下がね。だから、そういうものがいっぱい生えて、いろんなものを採って食べたね。山の実を。
まあ、本当に何でも食べたのう。
それで、豊川用水が来るようになって、やっと田んぼらしい田んぼができるようになったわけね。
水がかからにゃ何にもできんもんでね。落花生を植えても実はならんし。水まわりが発達してきて、畑も一人前にできるようになって、それでまあまあ裕福になってきたんだよ。
まあまあ、お百姓らしい仕事ができるようになったよね。
豊川用水でできた初立地にはね、もともとは小さい田んぼばっかり90枚ぐらいあった。嫁入りした時。全部段々の畑。
手は豆だらけになった。
「ああ、バカみたい。こんなに田んぼがあるなら、ここのうち来るんじゃなかった」と思った。ちょっと大きい田では牛がコロコロ車を引いて、植えるんだけど、わしゃそれができんもんだ。
まあ今は楽になってね。今あんな棚田みたいな田んぼならお嫁さんには来やへん。お嫁さんは今でも来ないけどもね。ここ(インタビューした小さめの会議室)のとこぐるっと巻いたぐらいの田んぼが一つぐらい、それがいっぱいあった。
自分には免許はないし、歩いてなんて行けやせんし、自動車はまだなかったね。牛車だった。
牛車も昭和40年ぐらいでなきゃないね。
そうそう、わしゃ23年に結婚しとったもんだ、こっちで。
田んぼはたくさんあって、とにかく豊川用水ができてからここらも裕福になった。だんだんみんなが考えて、耕地整理をして、農道ができた。
難儀してきただよ、本当の話が。初立ダムの下まで畑があって。そこまででもね、行き来がある気がするね。
そうだね。あそこまでも遠いもんね。
遠いもんねー。座ったままずっと動く道路ができたらよかないと思って。そう思ったね。
川なんてもんは何にもない。山から落ちる水なんて、川ができるほどは落ちてこない。
まあそうだけどね。今考えてみるとね、生まれたところ、ホラ吹くじゃないけど、ここらほどえぇとこはない。本当だよ。「住めば都よ、我が里よ」って言うけど。雨が降ってもそんな流されるような雨は降りゃせんし、風でも、あの伊勢湾台風、あれがえらかったけど、そんなにね。まあここらは本当にいいとこだなと思う。
生まれてからこの年になるまでね。
照るにつけ、降るにつけ、ここらはいいとこだよ。
私らもうちに井戸があって釣瓶(つるべ)で、深く掘っちゃって、土管が何本も出てた。その中へね、スイカをつりさげて冷やしたりすることもあったでね。
冷たい水でね。一軒一軒井戸は持っとったもんね。
やっぱしね村から遠いな。乗り物がないもんだい。それだもんで、行けやせんじゃん。自転車はあったかもしれんけどそれも一台くらいあったかのう。一軒のうちに一台か二台位ありゃいいとこだったね。
私はおじいさんから。そこに(豊川用水の予定地に)たくさん田んぼがあったもんで。食べていけやせんで困ったって言ってた。それは本当に反対しただよ。
出来て良かったけどね、初立ダムの田んぼが埋まっちゃったもんね。
初立ダムで埋まってしまう田んぼの分はこれだけだけども、他の土地を分けてもらおうと。女の人たちはそういうことに関心はあったけど、あんまり知らなかったね。
まとまりは良かったよね。それでもやっぱり小さいところだからね。仕方がないっていう式だね。
土地がなくなるということは、やっぱり百姓だもんで、それが頭に残るということはあるよ。まあ、そんな鉄砲で殺されたりなんかするような、そういうことはされなかったけどね。
伊良湖に住んだ後、今日本も外国みたいになったねって言って、日本が日本じゃなくなってきたように思うじゃない。都会だと。すれ違いに何かをひったくったとかそういうこと、何も知らんで住んできたのにね。もうテレビで見ると、そんなことばっかしで、外国になっちゃったみたいね。
やっぱり軍隊があった時が厳しかったので、育つ子どもたちが国のためにということを意識していた。自分が国のためにと言って働いて、先に帰ってくるのは恥ずかしいという気持ちだった。あの大昔の貧しい時を過ごして来たもんで、ちょっとしたものがご馳走、本当だが。
ちょっとしたことが楽しくて嬉しくて、今の人たちはいつもそうだから、やってもらったことも覚えとらんもんね。小さい時にあそこ行ったよね、ここで遊んだよねって、そう言ってもそれは普通の時だもん。私らは1年にいっぺんそんなことがありゃいいところだから、忘れられんけどね。
昔の子供はね、お父さんたちよりもまだおばあさんたちがおるもんで、おばあさんおじいさんたちの言うことをちゃんと聞いて、それでお父さんたちがこうだぞって言って、そういえばおばあさんやおじいさんもそう言うで、今までこうだったで、そうだなと思うけど、今の人って「何を言っとうだん。そんなことは昔のことだら」って思う。
今はテレビがみんな一部屋に一台あるような世の中だら。昔は紅白の歌合戦を見るのに、隣の家にテレビがあったら、そこへ映画見に行くようにして、見せてもらって。そうだよ。一台しかテレビないら。そこへ行っていた。
自分が見たいものは見れやせん。子供らがなんだかんだ出てきてひねると。そんなもんだいのう、そりゃの、昔と今はえらい違い。
子供らでもおばあさんやおじいさんと話したり、一個の火鉢にこうして当たっていた。
たいがいおじいさんおばあさんの話を聞いて育った。
まあ世の中は発達してええだか、悪いだか、何だかの。わしらで考えてみや。
家庭の教育なんてことはできなくなってしまって、国がしっかりしてもらわんと。
お母さんやお父さんがいくらしっかりしておっても、全体がそうじゃないもんだよね。教育ができんね。今じゃ。
あのね、昔は修身とか道徳とかそういうものを教わったけど、今じゃあんた先生らも”ば”の字も言えんが。そうせやクビになっちゃうが。教育のもとがいかんのう、本当の話が。
わしらが育ってきた時は、先生の影も踏むなって言ってる時代だった。いまは先生をなんとも思ってやへんもんで。世の中発達するのもええもんばっかじゃない。
親たちも先生は神様ぐらいに思っていて。今じゃもう、親たちがみんな教育を受けて大学まで行くと思うんだよね。先生たちを見下ろすような感じがあってね、子どもたちにも悪いよね。
先生がああ言ったこう言ったって子供らが言うや、親がそれを信じちゃって、子供の言うことを。
家庭でも、やっぱり親から教育してもらわなきゃ。偉そうなことを言うみたいだけど、国がしっかりしてくれなきゃ。先生がしっかりしておっても、先生がしっかりしただけのことをやろうと思うとPTAから反対をもらうもんだから。先生は先生だということを子どもに教え込んでくればいいけど、親がちょっと先生をバカにしたことを言うと、子どもなんか尚更。
(同行市職員より)僕らが小学校の頃ね、おばあさんに来てもらって、おじいさんに来てもらって、当時の開墾の話をね、聞いたりとか、そういう機会が結構あったんだけど、今ってそういう機会がない。
父母会じゃなくてね。祖父母会があったもんね。
(同行市職員より)昔はマスをこうやって抜いただよとかね、井戸をこうやって掘っただよっていう話を直接聞いたことがあるんですけど、そういうことは今なかなかない。
おばあさんらの話なんかそんな聞かんでもええって変わってきてる。
私たちでも、おばあさんたちの話で、「昔はこうしてヒエを食べとったの」とかね、それから、土地持ちで小作の人たちにヒエなんかを届けてもらってということを聞いた。ヒエなんていうもの見たこともないね。私たちがそう思うことを今の子供たちに私らの昔を聞かせたってそりゃ何だろうってなる。
そうすると村の様子も昔の様子も知らんでね。私たちぐらいまではまだ伊良湖岬の中で結婚相手を探していることも多かった。伊良湖の人たちは日出と伊良湖で交換するぐらいなので、何でも分かっとったし、何でも話ができて、よくみんな理解ができたんだけど。まあ、街から来た人たちに、そりゃ違うでって言ったって何が違うのかわからないですよ。
そうだよ。「そんなこと昔のことだが」って言われます。それで、まぁおしまいだもんね。
でも昔と今との通じとることは、親切で人には優しくしてっていうようなこと。本当にそれが大事だけど、そんなことを言った分にゃ、「おばあさんの話はそんな聞かんでえぇ」ってなっちゃうで。
まだまだ私らぐらいのときは、自分の実家の方がたとえ1里ぐらい離れている分でも、遠い親戚よりも近隣って言って、隣の人たちの方のがね、親切に何でもさっとやってもらえる、そんな遠くから呼んどる暇はない、そういうもんだったからね。みんなどんな遠くでも伊良湖の中でも昔はそういう集まりがある。一月に何回もあったんだよね。
何にもなくても自然はね、本当に綺麗で、ガイドさんに一度ビューホテルまで乗せてもらった時に、こんないいとこに住んどってあんたたちはどこへ旅行に行くの?って言われたぐらい。ずっと回って見てもらえやね、嬉しいなと思うね。
私らね、住所がこの向こうだったけど、ここの方がいいね。住むのが都だね。
ここで生まれて、ここで育って、どこにも出たことないもんね。井の中の蛙で、外のことはわからん。
伊良湖のいいとこで、ずっと住んでみとるもんで、それほどに思わんけど、よそから来るとすばらしい。内藤さんも私も同じ部落でね、一色っていうところで。母校も一緒だもんね。よく話してます。
わしゃねえ、やっぱし伊良湖から伊良湖だもんだ。どっか一村か二村、向こうから来たなら、いいけど。どんな些細なことまでも、在所に分かっちゃうが。
あそこが一番なの。あっちもこっちも見えるし。露天風呂へ入ってみて、そうすると前が神島で、ずっと志摩半島が見えてね、海がきれいでもうあの景色を見てもらいたい。
昔から何かと五目のごはんっていって、人参やちくわを炊いた。それは私らのごっつお(ごちそう)。私はそれが好き。
昔質素な生活で食べ物も難儀してきたもんで。それがご馳走だったもんでね。
私らの世代はね、今の炊き込みご飯はあんまり好きじゃないからね。ご飯に後で混ぜる。ちらしずしみたいにね。それが好き。
私は魚が好きだけどマグロは嫌いで。コハダが好き。
磯魚がいいね。
若い人も関心はないよね。豊川用水ができる前は、ここらは砂畑だもんで、水がかからんもんだ。田んぼでも掘って植えたりしただもん、手で。枯れちゃったりなんかしただよ。
陸軍地っていって、陸軍の試砲場があるでしょ。それでこっちが伊良湖の土地だったんだけど、その陸軍地を払い下げてもらって、伊良湖の村もなかなかちょっと裕福になってきたで、その前はここらへんなんか本当に本当に貧乏だったわよ。
学徒で豊川に挺身隊で行っとったぐらいだもんだ。昭和3年、本当の大昔で、おかゆをすすっとったような時だもんね。
昭和3年生まれだと、戦争が終わった時が17歳?
そうだね。工廠へも行って、挺身隊で。それで、海軍工廠だったもんだい。それで、第4信管工場というところで働いて。私らは機関銃の弾を穴開けとったのよ。学徒で行っとるもんだ。学校の先生も行っとるもんで。夜は勉強もせにゃならんし。3勤交代で、朝8時から8時間働いて、またその真ん中はまたその次の人が働いて、それで夜中もそういうふうにして働いて、勉強なんてしたもんじゃないんだ。
支那事変が昭和13年に始まって、その時に10歳だもんだね。それでハワイで真珠湾攻撃やっちゃったもんだ。バカチンだったのう。本当に。それから戦争が始まって、昭和20年の8月15日が終戦だもんで、13年から20年の8月まで戦争ばっかりして。挺身隊に行ったり、そういうことしたんだ。本当にね。
挺身隊について教えてもらっていいですか?
豊川というところに海軍工廠というのがあって、海軍さんの兵器、アメリカさんを攻撃する鉄砲の弾とか、高射砲とか、そういうのを作っとっただよ。豊川の海軍工廠で。今でいう高校ぐらいの子らが、みんな学校から挺身隊でそこへ働きに行って勤めとった。久保さんも働いてた?
はい、私も行っておりました。機関銃の弾を作ってた?
機関銃。あの機関銃の弾へこうして穴を開けとっただよ。アメリカに勝つようなことはないのに戦争を始めちゃったんだ。真珠湾へダーッと行っちゃったもんだよ。バカチンがのう。負けるのわかっとるのに、東京じゃ「どこそこを占領した、どこそこをあれした」って嘘をこきながら提灯行列やっとっただよ。私はそれを信じておったもんよ。勝利の日まで勝利の日までって言って、日の丸の旗のハチマキをこう縛って、それで学徒だもんだい、みんな四列に並んで、海軍さんの偉い人らが来ると、「頭右(かしらみぎ)」って言って。その人の合わせで、「歩調(ほちょう)取れ」って言ってね、そういうこと、兵隊と同じことをやってきたんだよ。
その時もこの辺に住んでたんですか?
私はここが在所で、嫁にきたのがここだもんだ。それで私はこんなに年くってます。学徒の頃は豊橋まではどうやって移動してたんですか?
学徒の頃は海軍工廠の紋章をつけとったもんだ。バスが一番先に乗せてくれるんだよ。ここらの村もバスが走って、手を挙げや止まってくれおっただけど、わしらが海軍工廠行っとる時は、堀切からでなきゃ乗れなんだもんだ。
そこまでは歩いて行った?
そりゃまあ、歩いたり、うちのもんに送ってもらったりした。自転車とかね。
昔の田原の暮らしについて、特に印象に残っていることや生活の工夫があれば教えてください。
田原までしか電車が通っていないもので、私が挺身隊に行った時には、田原から家まで歩いとっただよ。たまたま休暇があったんだよね、代わりばんこに。その時に家に帰りたいもんだ、そこから歩くと、朝早くここに着くとね。それでその時に食べ物が全然なかったもんで、お腹は育ち盛りだし、すいちゃうもんだ。うちへ来ると、うちのもんが香煎(こうせん)って、麦を炒って、ひいた粉、分かるかね?それで大豆やとにかく腹へ入るものをみな持たせてくれて、大豆や何かを枕ほど入れて、その大豆を食べたで。そういうものを持って、向こうへ行くと友達がかわりばんこで待ってるもんで、みんなにそれを分けてやって。本当にそうだったよ、そういうもんだね。まあ今の子らを見るとね、わがままなとこだけ見えていかんね。やっぱし厳しい世の中を過ぎてきただもん、本当の話が。石橋さんと内藤さんは戦争は直接?
太平洋戦争は小学校1年生だったんだよね。そうだね。私が3年生だったんだよね。
自分には本がなかったね。その時はもう戦争が始まっているもんで。先生がね、謄写版(※ロウを塗った原紙(ろうげんし)に鉄筆(てっぴつ)で文字や絵を書き、鉄筆で削られた部分にできた微細な穴からインクを転写して印刷する)で刷ってね、くれとった。まあ、本当にようここへ生きてこれたかなと思うぐらい。何にも勉強って言うほどの勉強はせやぁせんだもん。
1年生から4年生まで戦争で、それであっち行ってこっち行って走って各部落で学校を作ってね。それでやっとった。
学校でも芋の苗をもらって芋を植えたりして、作業に出ただけで優良可がつくぐらい。
それで中学校になると、そこを開墾して、学校でこうやって作業して。高校行ったらまた山の中を開墾したところで。何にも勉強せやせんよ。
学校へ行くと言うといじこ(※母親が農作業をする際に乳幼児を入れて寝かせておいた、藁(わら)や木で作られたかご)を持ったり、棒を持ったり。そのぐらい勉強せなんだもんね。
それでも1足す2は3っていうことは分かるでぇの。
私の姉は豊川工廠まで行っとるけどね。爆撃に遭ったんだけど、みんな玄関へ逃げた人たちは亡くなっちゃって、私の姉たちは裏の山へ逃げたもんだよ。助かって。そこから歩いて家へ帰ってきた時は2時だよ、夜中の。歩いて帰ってきた。
車なんか乗らんもんだよね。どこへ行くでも歩く。
それで耕運機もトラクターもないもんで。こうやって全部手でやったと思うんだよね。それなんで腕も丈夫だし、もう100才までも生きちゃあ困ったやと思って。
やっぱりあんまり甘やかして育てても勉強が頭に入らんね。
これをやらなきゃならんけど、この仕事もあの仕事もしなきゃならん中で勉強するもんで頭に入るだと思う。
学校ものう、今の子は行かんとかある。百姓の忙しいときとかは「学校やめて手伝ったら?」そう言われるだもんだ。学校も休みになるし、忙しいときはやめて手伝えぐらいだもんだ。どうしてもそんな学校に通ってほしいんじゃない。行きたいから行くもんだ。
うちが忙しくて子供が大勢いると、学校でも小さい子供を連れてきてもいいよって、子供連れて行く人もおった。それぐらいだと思うんだ。どうしてもみんなについて行くには勉強せにゃあついて行けやせんしね。
まあ、裕福な人もあったもんだよね。でも50銭貯金をするという人はちょっと珍しかったぜ。わしらの小学校の時の、50銭貯金する人はよっぽどおらんかったねえ。小遣いが10銭だもんね。
御衣祭(おんぞまつり)っていうのがあるんだけど、ちょっとお金を使うと学校の先生がいくら使ったって言って調べるもんで、ちょっと高いものが欲しいなと思うと、うちのものを呼び行って使ってもらうというようなのだったんだよ。
10銭って今だといくらぐらいの感じだろうか?
10銭って今どれぐらいだ?1円ってものすごい大金だった。1円で飴玉が6つぐらい買えたな。
じゃあ、飴玉も買えなかった?
はい、飴玉も買えんかった。食べるもんなんて、そんな買って遊ぶことは知らんもんね。芋だけだ。芋をゆでてカマドの中へうちのものが入れておいてくれると上っ側が焼けてちょっと香ばしくなる。それを学校から帰ってきて懐に入れて、みんなと遊びに走りまわっとった。本当にそうだったよ。貧しい世の中を過ごしてきただよ。今やなんか天国だがねぇ。食べるもんなんか。もったいない。バチが当たらぁ、ほんとに。
学校と仕事以外、遊びとか、楽しむことはありましたか?
楽しいこともそりゃあ。楽しいことってあんた、なんだった?夏はまあ、泳ぎに行くのがあったね。
みんなで遊んではおったけどね。
伊良湖はのう、泳ぎ行けんだよ。試砲場からの弾が来るもんね。大砲の弾の距離を測るもんで。それだもんで、今日はこっちの浜の方へは入っちゃいけませんって。あそこの高いちょっぷり山、ちょっぷり山って私ら言うんだけど、そこに赤旗が上がるもんで、そうすると入れやせん。番人がおって「行っちゃいかん」ってこうするもん。
本当に貧しくてな。海へ行けりゃ海へ行くか、そうでなかったら山で遊ぶか、冬になると、山に小グミって言ってグミの小さいやつがあるんだ、それをちぎってきて食べる。
山の方に行くと、今もありますか?
山にはあるわ、山にはあるけど、入れん。昔はね、山の入口を大人が刈って炊き物にしたからね。火を焚いて何でもやったんだから。綺麗だった。下がね。だから、そういうものがいっぱい生えて、いろんなものを採って食べたね。山の実を。
まあ、本当に何でも食べたのう。
それで、豊川用水が来るようになって、やっと田んぼらしい田んぼができるようになったわけね。
水がかからにゃ何にもできんもんでね。落花生を植えても実はならんし。水まわりが発達してきて、畑も一人前にできるようになって、それでまあまあ裕福になってきたんだよ。
まあまあ、お百姓らしい仕事ができるようになったよね。
豊川用水でできた初立地にはね、もともとは小さい田んぼばっかり90枚ぐらいあった。嫁入りした時。全部段々の畑。
手は豆だらけになった。
「ああ、バカみたい。こんなに田んぼがあるなら、ここのうち来るんじゃなかった」と思った。ちょっと大きい田では牛がコロコロ車を引いて、植えるんだけど、わしゃそれができんもんだ。
まあ今は楽になってね。今あんな棚田みたいな田んぼならお嫁さんには来やへん。お嫁さんは今でも来ないけどもね。ここ(インタビューした小さめの会議室)のとこぐるっと巻いたぐらいの田んぼが一つぐらい、それがいっぱいあった。
豊川用水ができて、水が出た時のこととか覚えてますか?
あの時はどうだったんや?知らんよ、わしゃ。ふと気づいたら水が来とったんだよ。自分には免許はないし、歩いてなんて行けやせんし、自動車はまだなかったね。牛車だった。
牛車も昭和40年ぐらいでなきゃないね。
そうそう、わしゃ23年に結婚しとったもんだ、こっちで。
田んぼはたくさんあって、とにかく豊川用水ができてからここらも裕福になった。だんだんみんなが考えて、耕地整理をして、農道ができた。
難儀してきただよ、本当の話が。初立ダムの下まで畑があって。そこまででもね、行き来がある気がするね。
そうだね。あそこまでも遠いもんね。
遠いもんねー。座ったままずっと動く道路ができたらよかないと思って。そう思ったね。
米ができても手で運ぶんですよね?
そうだよ、山があったので、その木に縄を張って運ぶ。手で運ぶの。知らんかもしれんけど、背負子(しょいこ)。ああいうものに稲をつけて、背負って出してただが。昔の話をすれば笑えるな。私らは懐かしく思うけどね。何もかもしてきた。本当に。豊川用水ができる前は水はどうやって?
水はもう自然の水。雨の。山が四方にあるもんでね。四方にずらーっと高い山があって、そうすると自然に水がそこへ溜まるもん。川なんてもんは何にもない。山から落ちる水なんて、川ができるほどは落ちてこない。
飲む水にはあまり困らない?
飲む水には困らなかったね。井戸を掘ってあったで。飲む水には困らんし、水質を検査してもすごく良かっただよね。まあそうだけどね。今考えてみるとね、生まれたところ、ホラ吹くじゃないけど、ここらほどえぇとこはない。本当だよ。「住めば都よ、我が里よ」って言うけど。雨が降ってもそんな流されるような雨は降りゃせんし、風でも、あの伊勢湾台風、あれがえらかったけど、そんなにね。まあここらは本当にいいとこだなと思う。
生まれてからこの年になるまでね。
照るにつけ、降るにつけ、ここらはいいとこだよ。
私らもうちに井戸があって釣瓶(つるべ)で、深く掘っちゃって、土管が何本も出てた。その中へね、スイカをつりさげて冷やしたりすることもあったでね。
冷たい水でね。一軒一軒井戸は持っとったもんね。
豊川用水作るのに10年かかった、最初作り始めた頃は水が通ってくるってイメージが湧かなかったっていう話を聞いたのですが、この辺は覚えてますか?
あたしらそのことはあんまり知らないね。知らない。やっぱしね村から遠いな。乗り物がないもんだい。それだもんで、行けやせんじゃん。自転車はあったかもしれんけどそれも一台くらいあったかのう。一軒のうちに一台か二台位ありゃいいとこだったね。
水が来るんだ言われても何がどうやって来るみたいな感じですよね。その時代はニュースとか豊川用水作ってるとか、いつできるとかどうやって情報を得ていました?
大体、村の自治会の人たちがいろいろ集まって話をしてどこかから情報を持ってくる。自治会の人のところへ情報が入ってそれが村へ広がってっていう情報しかないわね。私はおじいさんから。そこに(豊川用水の予定地に)たくさん田んぼがあったもんで。食べていけやせんで困ったって言ってた。それは本当に反対しただよ。
出来て良かったけどね、初立ダムの田んぼが埋まっちゃったもんね。
あ、そうかそうか、そこを取られちゃったわけだ。
田んぼや畑がなくなりゃ孫子の末まで百姓だもんだ、孫子の末まで食べちゃいけやへんで、豊川用水がどうしてもできやあれだ言って、掘り木だ買ったり、そういうことしただに、本当の話が。田んぼを売ったお金は?
お金ももらったけど、お金はそうたくさんはもらえませんし、買う方が高かった。初立ダムで埋まってしまう田んぼの分はこれだけだけども、他の土地を分けてもらおうと。女の人たちはそういうことに関心はあったけど、あんまり知らなかったね。
まとまりは良かったよね。それでもやっぱり小さいところだからね。仕方がないっていう式だね。
土地がなくなるということは、やっぱり百姓だもんで、それが頭に残るということはあるよ。まあ、そんな鉄砲で殺されたりなんかするような、そういうことはされなかったけどね。
伊良湖に住んだ後、今日本も外国みたいになったねって言って、日本が日本じゃなくなってきたように思うじゃない。都会だと。すれ違いに何かをひったくったとかそういうこと、何も知らんで住んできたのにね。もうテレビで見ると、そんなことばっかしで、外国になっちゃったみたいね。
やっぱり軍隊があった時が厳しかったので、育つ子どもたちが国のためにということを意識していた。自分が国のためにと言って働いて、先に帰ってくるのは恥ずかしいという気持ちだった。あの大昔の貧しい時を過ごして来たもんで、ちょっとしたものがご馳走、本当だが。
ちょっとしたことが楽しくて嬉しくて、今の人たちはいつもそうだから、やってもらったことも覚えとらんもんね。小さい時にあそこ行ったよね、ここで遊んだよねって、そう言ってもそれは普通の時だもん。私らは1年にいっぺんそんなことがありゃいいところだから、忘れられんけどね。
昔の田原市の暮らしの知恵や工夫で、現代に伝えたいと思うことはありますか?
全部だ、全部。暮らしは全部、今伝えたい。おばあさんが今何か言っても、やっぱし親がいればおばあさんの言うことは「本当だか嘘だか」っていうようなところもあると思う。昔の子供はね、お父さんたちよりもまだおばあさんたちがおるもんで、おばあさんおじいさんたちの言うことをちゃんと聞いて、それでお父さんたちがこうだぞって言って、そういえばおばあさんやおじいさんもそう言うで、今までこうだったで、そうだなと思うけど、今の人って「何を言っとうだん。そんなことは昔のことだら」って思う。
今はテレビがみんな一部屋に一台あるような世の中だら。昔は紅白の歌合戦を見るのに、隣の家にテレビがあったら、そこへ映画見に行くようにして、見せてもらって。そうだよ。一台しかテレビないら。そこへ行っていた。
自分が見たいものは見れやせん。子供らがなんだかんだ出てきてひねると。そんなもんだいのう、そりゃの、昔と今はえらい違い。
子供らでもおばあさんやおじいさんと話したり、一個の火鉢にこうして当たっていた。
たいがいおじいさんおばあさんの話を聞いて育った。
まあ世の中は発達してええだか、悪いだか、何だかの。わしらで考えてみや。
家庭の教育なんてことはできなくなってしまって、国がしっかりしてもらわんと。
お母さんやお父さんがいくらしっかりしておっても、全体がそうじゃないもんだよね。教育ができんね。今じゃ。
あのね、昔は修身とか道徳とかそういうものを教わったけど、今じゃあんた先生らも”ば”の字も言えんが。そうせやクビになっちゃうが。教育のもとがいかんのう、本当の話が。
わしらが育ってきた時は、先生の影も踏むなって言ってる時代だった。いまは先生をなんとも思ってやへんもんで。世の中発達するのもええもんばっかじゃない。
親たちも先生は神様ぐらいに思っていて。今じゃもう、親たちがみんな教育を受けて大学まで行くと思うんだよね。先生たちを見下ろすような感じがあってね、子どもたちにも悪いよね。
先生がああ言ったこう言ったって子供らが言うや、親がそれを信じちゃって、子供の言うことを。
先生に怒られたって言ったら、お前が悪いんじゃ、ってやられてましたもんねぇ。
ここで先生もえらいきついことするみたいだと思うけども、子どもたちが言うこと聞かんとピシーンとやるけど、やられた子はその先生とすごく良くなるということは先生に愛情があったということだよね。子どもに対して厳しかったけど、愛情があったわけ。今の子供たちが田原市の歴史や歩みに興味を持つために、どのような機会や活動があると良いと思われますか?
わしらの年の人らが孫やらの世話は焼けんでの、今は。今子どもらを育てとる親らがちょっとわがままな時代になってきている。それだもんで、昔のようなわけにはいかんね。家庭でも、やっぱり親から教育してもらわなきゃ。偉そうなことを言うみたいだけど、国がしっかりしてくれなきゃ。先生がしっかりしておっても、先生がしっかりしただけのことをやろうと思うとPTAから反対をもらうもんだから。先生は先生だということを子どもに教え込んでくればいいけど、親がちょっと先生をバカにしたことを言うと、子どもなんか尚更。
(同行市職員より)僕らが小学校の頃ね、おばあさんに来てもらって、おじいさんに来てもらって、当時の開墾の話をね、聞いたりとか、そういう機会が結構あったんだけど、今ってそういう機会がない。
父母会じゃなくてね。祖父母会があったもんね。
(同行市職員より)昔はマスをこうやって抜いただよとかね、井戸をこうやって掘っただよっていう話を直接聞いたことがあるんですけど、そういうことは今なかなかない。
おばあさんらの話なんかそんな聞かんでもええって変わってきてる。
私たちでも、おばあさんたちの話で、「昔はこうしてヒエを食べとったの」とかね、それから、土地持ちで小作の人たちにヒエなんかを届けてもらってということを聞いた。ヒエなんていうもの見たこともないね。私たちがそう思うことを今の子供たちに私らの昔を聞かせたってそりゃ何だろうってなる。
多分若い子も本当に聞きたい人たくさんいるんだけどね。やっぱり話できるチャンスはないですね。
私らぐらいまでは昔のお年寄りの人たちが老人会、婦人会、青年団ってあったもんだから、そういう集まりで昔から今のことからずっとやってきたけど、今は全然それが何にもない。そうすると村の様子も昔の様子も知らんでね。私たちぐらいまではまだ伊良湖岬の中で結婚相手を探していることも多かった。伊良湖の人たちは日出と伊良湖で交換するぐらいなので、何でも分かっとったし、何でも話ができて、よくみんな理解ができたんだけど。まあ、街から来た人たちに、そりゃ違うでって言ったって何が違うのかわからないですよ。
そうだよ。「そんなこと昔のことだが」って言われます。それで、まぁおしまいだもんね。
でも昔と今との通じとることは、親切で人には優しくしてっていうようなこと。本当にそれが大事だけど、そんなことを言った分にゃ、「おばあさんの話はそんな聞かんでえぇ」ってなっちゃうで。
まだまだ私らぐらいのときは、自分の実家の方がたとえ1里ぐらい離れている分でも、遠い親戚よりも近隣って言って、隣の人たちの方のがね、親切に何でもさっとやってもらえる、そんな遠くから呼んどる暇はない、そういうもんだったからね。みんなどんな遠くでも伊良湖の中でも昔はそういう集まりがある。一月に何回もあったんだよね。
田原で一番好きなところは?外から来た方にぜひ見てもらいたいとか、自分がすごく素敵だなと思っているところ
何にもないところだけども、自然の景色が良くて、伊良湖を一番見てもらいたい。何にもなくても自然はね、本当に綺麗で、ガイドさんに一度ビューホテルまで乗せてもらった時に、こんないいとこに住んどってあんたたちはどこへ旅行に行くの?って言われたぐらい。ずっと回って見てもらえやね、嬉しいなと思うね。
私らね、住所がこの向こうだったけど、ここの方がいいね。住むのが都だね。
ここで生まれて、ここで育って、どこにも出たことないもんね。井の中の蛙で、外のことはわからん。
伊良湖のいいとこで、ずっと住んでみとるもんで、それほどに思わんけど、よそから来るとすばらしい。内藤さんも私も同じ部落でね、一色っていうところで。母校も一緒だもんね。よく話してます。
わしゃねえ、やっぱし伊良湖から伊良湖だもんだ。どっか一村か二村、向こうから来たなら、いいけど。どんな些細なことまでも、在所に分かっちゃうが。
伊良湖の中で、ここに立って見る景色が一番好きだなとかいう場所ってありますか?
ビューホテルから見る景色が一番好き。 あーそうだね。あそこが一番なの。あっちもこっちも見えるし。露天風呂へ入ってみて、そうすると前が神島で、ずっと志摩半島が見えてね、海がきれいでもうあの景色を見てもらいたい。
最後に、一番好きな食べ物はありますか?
みんな何でも食べてる、おいしいもんばっかでね。昔から何かと五目のごはんっていって、人参やちくわを炊いた。それは私らのごっつお(ごちそう)。私はそれが好き。
昔質素な生活で食べ物も難儀してきたもんで。それがご馳走だったもんでね。
私らの世代はね、今の炊き込みご飯はあんまり好きじゃないからね。ご飯に後で混ぜる。ちらしずしみたいにね。それが好き。
私は魚が好きだけどマグロは嫌いで。コハダが好き。
磯魚がいいね。