芭蕉と杜国の話//Stories about Basho and Tokoku

KAWASAKI Masao

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川崎政夫

1941年、大阪生まれ。戦時疎開で椰子の実のようにぷかぷかと彷徨いながらこの地に辿り着いた。元英語の先生。渥美の人たちはここにはなにもないというが、そんなことはない、宝はいっぱいあると思っている。

私は生まれは実は大阪なんです。
ヤシの実みたいに流れ着いたところはここでした。プカプカと流れて、ようやくたどり着いたとこがここなんですわ。戦後のドサクサの時に、両親と一緒に疎開してきたんですけど、皆さんに温かく迎えていただいた。

そもそもどうして杜国に会いに芭蕉がやってきたのか?

杜国と芭蕉は俳句という世界で、師弟の関係にあったんですね。
名古屋でも俳句の会が頻繁に行われておったわけですね。杜国は名古屋におりましたので、そんな関係で芭蕉とも面識があったと思うんです。

でもたまたま杜国はですね、空米(からまい)と言いまして、お米の取引を実際の実物の取引ではなくて、架空の取引をしてしまったものですから、本来はこれは尾張藩の掟でいきますと死刑になるんですが、尾張藩の藩主さんが杜国の才能を大変惜しまれて、両国追放(※江戸時代の刑罰の一種で、特定の場所から追放する刑)という、他のところへ行きなさいということで追放されたんですね。

そんな関係で杜国はですね、今の田原市にやってきたんですが、たまたま杜国のお屋敷にお仕えしていたの家田与八という方で、その家田与八さんが本によりますと当時18歳ぐらいだったようで、「ご主人様お気の毒ですが、私の住んでいたところは暖かいし、食べ物もあるからどうぞ一緒に行きましょう。」ってお誘いをしたようですね。

杜国と芭蕉とはどのような関係であったのか?

先ほど申し上げたように、俳句の世界で師弟の関係にあったと思うんですね。
特に芭蕉は杜国の才能を非常に評価していたんですね。そういう関係で、芭蕉と杜国は師弟関係である以上に、何て言うんですかね、非常に芭蕉は杜国を大事にしていたということだと思うんです。

杜国に会いに来る途中で、芭蕉が詠んだ句があったのか、あればどのような歌なのか?

ありますね。
杜国の不遇を知ったのは名古屋の近くの鳴海というところで知ったわけですね。この鳴海というのは、名古屋の近くなんですが、たまたま芭蕉は江戸から伊賀へ向かう途中だったんですね。その途中に鳴海で、その杜国の不遇を知ったわけです。

これは大変だなかわいそうなことだなということですぐに折り返そうと、杜国に会いに行こうということで、その当時一緒にいた越人(えつじん)という弟子を連れてきたわけですね。最初1泊目は吉田宿、今の豊橋に泊まりました。その後いよいよ渥美半島に入ってきた時に、天津(あまづ)というところで

” 冬の日や 馬上に凍る 影法師 “

冬の日や、馬上、馬の上ですね、馬上に凍る影法師。すごく寒い、そういう状況を詠った俳句があります。そして、もう少し渥美半島寄りに来た時にですね、今の地名で言うと、江比間(えひま)というところにあたります。

ここで

” 雪や砂 馬より落ちそ 酒の酔い “

雪が降ってくる、砂は飛んでくる。寒いなーって馬から落ちた、多分これはお酒を飲んでいて落ちてしまった。それは多分、越人が落ちたと思うんです。芭蕉が落ちたのかもしれませんが、いずれにしても酒の酔いという歌を詠ったわけですね。
まぁお酒飲まにゃーやってけれんという感じですね。
馬に乗ってといっても走ってくるわけじゃないんですよ、ゆっくりと馬に乗って、でも2人は乗れませんので、たぶん越人と交代したのかもしれませんね。

当時の旧暦で11月10日に鳴海を出て、この畑村に着いたのが11月12日なんです。
でもこれは旧暦ですので、新暦でいきますと12月の15日頃ですね。こちらへ来た。

再会後、芭蕉と杜国は一緒に行動したのか?

3人で会って「よかった無事でよかったね」という思いで一晩過ごしたと思うんですね。多分西行(さいぎょう)もこの伊良湖にきて鷹の歌を詠っているんですね。それから万葉集にも伊良湖の歌が出てきます。

ひょっとすると芭蕉はそのあたりのことも知ってて「伊良湖へ行きたい、鷹をみたい」ということで伊良湖へ向かったと思うんです。これは3人で行ったと思うんですね。
で、伊良湖に行って詠ったのが

” 鷹一つ 見付けてうれし いらご崎 “

という歌なんですけども、今の暦で12月に鷹はなかなか渡ってこないんですね。ですから鷹一つの鷹は本当の鷹なのか、それとも杜国のことを詠ってるのかという論争も色々あるんですね。意見の食い違いもあります。どちらが正しいか分かりません。

市内で芭蕉と杜国にゆかりの地はあるのか?

まずはゆかりの地というと潮音寺(ちょうおんじ)ですね。
ここには杜国のお墓がありますし、芭蕉と越人と杜国3人が詠った歌ですが、三吟の碑と言いますが、それもありますので、潮音寺さんは、 杜国ゆかりの地だと思います。

それからあとは

” 麦生えて よき隠れ家や 畑村 “

という畑村の神社ですね。畑神社ここにも句碑があります。

それから芭蕉がですね

” 梅椿 早咲き褒めん 保美の里 “

という句を歌っています。梅も椿も咲いて、あったかい良い所だね。
これは保美の公民館に句碑があります。

あとは、杜国の屋敷跡ですね。ここらがゆかりの地ということだと思います。

市内に芭蕉にゆかりのある資料は残されているのか?

ある程度残っていると思うんですが、杜国はですね、追放された身、いわゆる罪人という意識が杜国自身にもありましたので、あまりたくさんこの地で歌を詠うことはないんですね。ですからたくさんその歌が残ってるかというと、あまり残っていません。

ただその後の人々も杜国の業績を惜しんで、杜国がいたからこそ芭蕉が来たと非常に評価してですね、杜国のお墓もきちんと建てようとなった。本当は杜国のお墓は潮音寺のお寺の原っぱ、潮音寺原という場所に、ちょっとみすぼらしい石を建てたぐらいのお墓だった。でも「それはいかんな」と色んな人たちが杜国のことを惜しんで、それでお墓を建て、潮音寺さんに保護していただいた、ということだと思うんですね。

その後も、杜国を褒めたたえる会「杜国顕彰会」というのもできて、今もずっと続いてます。今年で68回目の杜国を祀る会を持ちました。

他にこの地で芭蕉が詠んだ歌はないのか?

芭蕉がここに来てまず杜国の屋敷を見た時に

” さればこそ 荒れたきままの 霜の宿 “

荒れたままの本当に霜がいっぱいの屋敷だなあという。これは多分最初に詠った句だと思うんです。いろいろと杜国とお話をしているうちに、周りを見渡した時に

” 麦生えて 良き隠れ家や 畑村 “

麦も生えてて食べ物もある、よかったなと言うた。そして

” 梅椿 早咲き褒めん 保美の里 “

これも暖かくてよかったねという歌ですね。こういう句を詠っていると思うんです。
あとはあの有名な

” 鷹一つ 見付けてうれし いらご崎 “

こういう句がここらには残ってますね。

田原の中で一番好きなところ、絶対見た方がいいところはありますか?

観光地ではないですが、ぜひ見ていただきたいのは渥美の総合体育館の敷地の中にですね、お皿を焼いた「皿焼古窯館」(さらやきこようかん)というのがあるんです。渥美半島は平安・鎌倉時代は非常に焼き物が盛んだったんですね。
その関係があって東大寺の瓦も焼いてくださいという依頼があったんです。

「皿焼古窯館」は登り釜(のぼりがま)で元にあった姿をそのまま今保存している。風化しないように建物を建ててその中に保存している。
私は友達が来ると伊良湖とかそういうところも案内しますけど、「皿焼古窯館」をだいたい案内する。忘れられがちなんだけれども、渥美半島は昔はね、本当に焼き物の盛んな地だったんですね。

ですから、秋草文壺(あきくさもんこ)、これは国宝になっているんですけども、そういう壺もあります。
これは平泉(岩手県)でも出るんですね、この渥美古窯は。ですから全国にいわゆる生活用品として流れていた。

それともう一つは、この渥美半島は貝塚が3つあるんです。
吉胡貝塚と伊川津貝塚と保美貝塚。保美貝塚からは人骨がたくさん出るんですが、その人骨もですね、普通に埋めているだけじゃなくて、ご存知のように昔は火葬がなかったものですから、まず土葬ですね。
土葬で、変な話ですが肉体が腐ってしまうと骨を出して、そしてこれは国立歴史民俗博物館にいた山田先生のお話だと、その人骨を井桁状に組み合わせて、そして何層かに作っております。山田先生のお話だと、大腿骨を洗骨して使っているんです。
私たちは貝塚というと、貝を捨てるゴミ捨て場だと思っていたんですが、山田先生のお話では、貝塚はよみがえりの場、夜に魂がよみがえってくる、そういう場所なんだ。そういう風にその縄文時代の人は捉えていた。だからすごく大事に骨を掘り起こして、井桁状にした。これを盤状集骨というんです。

全国でも珍しいのは、伊川津貝塚からは犬の骨が出てるんですね。しかも犬の骨も盤状集骨の近くに、人間の骨の近くに埋めてある。我々が考えていたのはいわゆる犬は狩猟目的だと思っていたんですが、狩猟目的以外にもペットとして、かわいがっていたということなんですね。貝塚はですね、全国に本当に誇りに思う素晴らしい遺産だという風に私は思っています。

それから、直径90cmぐらいの穴の跡があるんです。縄文時代というのは権力関係はないんです。多分弥生時代になって権力関係が出てきた。
縄文時代というのは権力関係はないし、一つの家族もせいぜい4、5人なんですね。そして集落もだいたい4、5軒ぐらいなんです。そんなところにこの直径90cmの穴の跡が出てきたんです。

これは東海地方ではどこにもありません。北陸へ行くと少し見られます。
これは何だったのか。いわゆるトーテムポールのようなものなのか、祭礼に用いたものなのか、それとも住居跡なのか、何なのかはまだはっきりしません。
いずれにしてもですよ。こんな電柱ぐらいの太いものを丸くして立てておったということは何人かの力を借りなきゃできません。

さっき言いましたように権力関係もありませんとなると、互恵関係ですね。お互い助け合う、そういう関係もあったんじゃないかな。だから縄文時代というのは、私たちが今忘れていることを、本当に学ばなきゃいけないことが分かります。

盤状集骨にしてもそうです。洗骨してよみがえると。今はお葬式といっても、形式的にやって終わりですが、亡くなった方を本当に悼んで、そしてその魂がよみがえってくるようにと願いを込めて、骨をお墓の代わりにしていた。こういうこともですね、我々今の日本人が忘れていることじゃないかなという気がするんですね。

子供の頃好きだった食べ物やエピソードはありますか?

子供の頃はいわゆるサトウキビですね。この辺ですと、そのサトウキビを挽いて黒砂糖にしてたんですよ。私たちが子供の頃は、大人がサトウキビを煮詰めて黒砂糖にしているところへウロウロと行きますよね。「砂糖が欲しいか?」っていうもんだから、「欲しい」と言うとちょっとくれるんですね。そういう思い出はあります。

この辺の農家はみんな2階にお蚕を飼ってて。そういう家が多かったんです。ここから伊勢神宮に宮司さんたちの衣を奉納していたんです。
豊橋とか浜松あたりがなぜうなぎの養殖が盛んなのかと言うと、お蚕の幼虫ですね。それを餌にしとったらしいです。

この辺の農家はみんな2階にお蚕を飼ってて。そういう家が多かったんです。ここから伊勢神宮に宮司さんたちの衣を奉納していたんです。
それを御衣(おんぞ)と呼びます。毎年今でも御衣祭りをやってます。伊良湖の方にある亀山というところに御料所というのがあるんです。そこで機織りをやります。蚕の繭から糸を取って、それを織って、織り物にして伊勢神宮に奉納する。

渥美半島は日本で唯一西に向かっているんです。日本列島の岬はほとんど南北ですが、渥美半島だけ西に向かってるんですよ。西に向かった先が志摩半島。伊勢神宮がある。ですからこのあたりは大昔は伊勢神宮領でもあった。だから田原にですね、田原の駅から次の駅に神戸(かんべ)というところがあります。それも神宮領の名残です。

今日いくつか句を教えていただいたんですけど川崎先生ご自身が一番好きな杜国とか芭蕉の句はありますか?

杜国はね

” 春ながら 名古屋にも似ぬ 空の色 “

杜国の屋敷跡のやつ、あの歌は私はすごく杜国の気持ちも表していると思って好きなんです。

芭蕉・杜国にご興味を持たれたというかそのきっかけみたいなことがあったら教えていただきたい。

実はこの杜国顕彰会の会長をやっているんです。
前の会長さんが皆さん俳句を詠まれてこられて、俳人なんですよ、著名人であったんですが、私の前の方はお亡くなりになって、次に会長がおらんわけですよ。ほんで、お寺の和尚さんとその杜国のことをとても勉強されている天野先生ですね。その2人が来られて、私は「嫌だ、嫌だ」って言ったんですけど、結局、まあ受けざるを得ず。受けた限りは少しは勉強しなきゃいけないということが始まりです。

よくこの田原の地の人が言うのは、「渥美には何もない。こんなとこには何もないぞ」と。でも、私はそういう言葉に反発を覚えてですね。「いや、ないことはない。知らんだけだからみんなで探そう」と言って、探すことを始めたのが一つのきっかけです。

だから、今この田原をどうしようかといろんな話をしてるんですけども、町づくりの話も、例えばサーファーで外から来られた人たち等、移住して来られた人もおるんです。そういう人たちのお話を聞くと、「いや何にもないことないよ」と、言うんだよ。

やっぱりそういう言葉にですね、勇気づけられるんですね。でも長いことここに住んでる人間は「何にもないこんなとこはなぁ」と言うんですよそんなことないですね。