農業の話//Stories about Agriculture

FUJISHIRO Nobuyuki

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藤城信幸

1954年、表浜(南神戸)地区生まれ。生まれた頃は半農半漁の集落でイモや麦といった畑仕事と地引網が行われていた。地形・地質研究や絵が趣味で、講演会や作品展を毎年開催している。元校長先生。

自分は1954年、今から70年前、現在の田原市の表浜と言われる太平洋側の集落に生まれました。
その頃は、ちょうど高度経済成長が始まる時期で、生活が次から次へと変化していました。
自分が小さい時は、まだ地引き網を海岸でやっていました。
地引き網は昭和34年の伊勢湾台風の時までやっていたと思うんです。だから当時表浜の集落は本当に水が足りなくて、雨水を飲んで生活をしていました。半農半漁ということで、地引き網をやりながら、芋や麦を作って暮らしている、そんな農家に生まれました。田舎に生まれたものですからね、まだトラクターとかは無くて、耕運機が入る前だった。それぞれの農家で牛を飼っていて、その牛を使って田畑を耕したり、車を引かせて、農地へ行っていました。それから糞尿も肥料としてすごく大事に使っていました。舗装も全然していなかったものですから、牛が引く車が通る2本の轍、その間を草が茂っている、その景色はずっと忘れられない原風景になっています。

豊川用水以前の農業と生活については?

豊川用水以前ですね、もう生活というのは本当に水がなかった。
先ほど言ったように生活用水、飲み水も全部雨水に頼っていた。井戸もあったんですけれども30メートル掘って水を汲み上げていたということですから、簡単に言うとビルの10階からバケツを下ろしてそこから汲み上げる。
そんなことなかなかできないものですから、屋根の下にタンクを掘って雨水をそこへ溜めて、その水で生活をしていたということです。大変だったと思うんですよね。

その水すごく大事ですよね。

すごく大事。だから顔を洗うにしても掬った分だけを。それから他の豊川用水の工事に来た人たちがどうも驚いたみたいですけども、「ちょっと水を飲ませてくれ」と言ったら柄杓で汲んでそこにボウフラがいて、ピンと跳ねてボウフラが下に行った時に水を飲むというような生活だった。
本当に水がない時には風呂も、足首ぐらいの水を沸かしてお湯にしてそれを二晩も三晩も使うというような生活をしていたんですよね。
ボウフラが湧かないように、そのタンクの中にフナだとか金魚を入れて、そういった水を飲むしかなかったというのが表浜の村での生活だったんですよ。だから、そのうちに自分が生まれた1953年に簡易水道といって、深い路を掘って村で水道をつくり、みんなでそれを使うようになった。それでも日照りが続くと農業でかける水もなかったから、雨に強い麦とか雑米を育てて収穫するしかないという状態だったんです。

豊川用水が入ってものすごく大きく変わりました。
商品作物を豊川用水ができる前に作り始めて、昭和43年に豊川用水が完成してそこから一気に、例えばスイカ、露地メロン、畑の冬作で言うとキャベツだとか大根、そういうものが自由にできるようになったということで、大きく農業が変わります。
僕が住んでたところよりも西側ですね、赤羽根方面に行くともちろん地引き網もやっていたし、豊川用水ができる前から温室で、電照菊だとかメロンそういったものも作り始めて、作れば儲かるということが分かっているから、昭和30年以降に井戸を掘って、温室で水かけをしながら施設園芸が始まっていくということです。
それが昭和43年ですから、10年余りして豊川用水ができて、一気に農業の形態も変わってくる。
赤羽根でいうと、同じように水不足のところなんですけれども7年経って赤羽根の農家が日本で一番農家1戸あたりの収益を上げるというのが5年ぐらい続いたかな。もう、本当に10年たらずで一気にこの地域が変わった。

用水ができる前は自宅に水とかはない?

本当に水が周りにない。川もない。ため池もないということですから。農業も生活も雨の水を受けてそれを使うしかない。やがて井戸を掘って共同でポンプをつけて汲み上げ、地下水で生活も大きく変わる。農業もその水を使って、特に赤羽根方面はその水を使って施設園芸だとか畑に水をかけて、昭和43年に豊川用水ができて、豊川の水を引きこんで一気に変わっていったし、それから昭和50年当たりのね、県水というんですかね、南部浄水場ができて一気に渥美半島の生活用水も豊川用水の中に含み込まれてだから、今は我々のこの生活というのは豊川なくしてはできない。だから農業用水も工業用水も生活用水もすべて豊川の水に頼っている。そういった暮らしに変わっていく、その自覚をみんなやっぱり持っていくべきだと思うんですよね。
平成になる以前、田原市は、合併前で三町だった。田原市の農業生産額800億円超えるんですよね。市になった時に一気に日本一になったんですけども、渥美郡として考えればずっと日本一の農業出荷額を誇っていた。それともう一つは構造改善事業といって、この地域の農業の形態が変わっていく。最初はほ場整備とか、規格をきちんと揃えて、豊川用水に幹線水路を通すんだけども、支線のように要するに毛細血管のようにそれぞれ畑にポンプアップした水がバルブをひねれば流れるようになった。これがすごく大きいと思います。
戦前から計画はあったんですね。昭和5年に国の計画はあったけども、戦争でできなくなって、戦後になって豊川用水の働きかけをしていくわけです。その時に大きく変わっているんです。畑地灌漑(はたちかんがい)といってさっき言ったように、各畑にバルブをつけて、ひねりさえすれば水が出るようになりました。
戦前の計画というのは田原湾と福江湾というところをですね、灌漑をして、そこの水源ということで豊川用水に引いていった。そうすると田んぼに自然に流れていくということですから、畑にかける計画は全くなかったんです。
赤羽根だとか渥美の太平洋側には田んぼもなかったものですから、その水路も予定していなかったわけです。戦前の計画で完成していたら今の渥美半島の農業形態ももっと変わっていったと思うし、豊川用水が完成した昭和43年の前年にはもう日本の米が余るようになっていたから、水田の用水という意味合いがだんだん無くなっていって。いろんな作物ができるように国としても指導している中で、お金も先行投資という形で入れてくるし、それから施設園芸団地とか畜産団地も作られていく。昭和50年代が本当に大きな発展の機会になっていたと思います。

僕自身がちょうど簡易水道ができた時に生まれたものですから、それ以前の様子はすごく苦労したという話はいくらでも聞きます。例えばシイの花が咲いた時に花粉が全部そのタンクの表面についてそれを分けてでも飲まなきゃいけないですし、餅つきの時、ちょうど冬場で渇水期だもんですからね、そこに溜まっている水を心配しながら餅をつくとかということですから。そういう意味では簡易水道ができて、水も使えるようになってきた。それから、県水で使えるようになってきて。雨水だと自分で管理しなきゃいけない。これが簡易水道になると村で管理をします、だけど豊川用水ができたら、お金さえ出せば自由に使えるようになったというのが、大きく変わったと思うんですよね。

昭和50年のあたりから、キャベツとか大根、それから露地メロンだとかスイカが始まりかけていって、ここから豊川用水が入ってくると、昭和43年からね。そしたら一気に伸びていった。
作れば儲かるということで、農家もすごく働いたと思うんですよね。冬場に大根、キャベツを作って、それを収穫し終えたら今度は露地メロンとかスイカを作って、年二作をやってということで、ちょっと過剰な労働になるほど働いていたと思うんです。
豊川用水を考えた近藤寿市郎は、高松の出身の方なんですけども、大正10年にもうすでに東南アジアに行ってそれを考えてきて、ずっと県議会だとか国会で働きかけて、豊川用水を実現しようとしていた時に戦争が起こって、その後、後継者の人たちが働きかけていって、昭和43年に豊川用水が完成したということです。

高松の出身の方の名前が出たと思うんですけど、その方が豊川用水を作ろうというのを提唱されたんですか?

そうですね。彼自身は高松出身で、政治家になろうということで東京に飛び出して、連れ戻されてで、渥美の惨状を見て。当時はね、日露戦争の中で米が足りなくなっちゃったんですよ。じゃあ日本の人口を養うのに海外へ移民をするとかあるいは土地の生産額を上げようということで調査に行ったんです。オランダ領のジャワ島に行った時に、豊川用水に近いようなものがあった。灌漑施設がね。それでこれを何とかしていかなきゃいけないということで彼自身が鳳来寺ってね、今の宇連ダムと全く一緒のところです。そこに大きなダムを作って、その水を渥美半島に運んでくれば、何とかなるだろうということを提唱していたんだよ。すごいのはこの渥美半島の地形が自然流下で水が自然に流れることに気がついたこと。渥美半島は東が高くて西が低いんですよ。
だから幹線水路で先端まで水を運ぶことができる。もちろん途中でサイフォンを使わなきゃいけないところもある。それから山を使わなきゃいけない。南の山のすそ野までトンネルを通す。半島の先端まで。次はこの水を太平洋側、南側から北に流さなきゃいけない。渥美半島はずっと南が高いものですから、そのまま自然に渥美半島の隅々まで水が流れていく。ポンプで加圧してそれぞれのバルブへつないでいくというのが戦後の形です。
渥美半島の地形がそのまま使えるということでね、このアイディアっていうのはすごいなと思いますよ。台地が低かったらできないですからね。

水がなかったら違うところに引っ越す必要もあったということ?

もちろん農村部ですから、人口も戦後ずーっと減ってきていることは確か。人口が増えていったのはやはり豊川用水と関わっている部分もあるけれども、田原にトヨタ自動車の工場がある。
工業用地を埋め立てによって作ってトヨタ自動車が入ってきたということで人口が増えている。渥美町も赤羽根町も田原町も。またちょっと減り始めているんだけども。農業も関わってくるけれどもそのタイミングが非常にうまくできている。だから渥美火力っていう発電所もできたり、それから港を作って、干潟ですから船が入れるわけではないけれどそこを浚渫して、工業用地を作って、港も作って、電気も、それから工業用水もそのタイミングで引いてきたと。それから道路を今度は引っ張っていくということです。
干潟だったら漁業をやるにはいいかもしれないけれども工業用地としてはね、一番難しいところをすべてセットで作っていく。

今の田原は違う。農業だけではちょっと難しいと思います。もちろん豊川用水ができた頃は農業の方が収益が上がるということで、当時盛んに言われていたのは8桁農業で1000万円を超える農家が次から次へと出て、東京へマッチを取りに喫茶店に行って戻ってくるっていうぐらいの景気で。だから教員をやるよりも農家をやった方がいいっていう、教員やめて自分の家を継ぐという人もいたみたいです。

豊川用水に関して若い人たちに伝えたいことや残したい記憶はありますか?

自分たちは豊川用水の工事見てるんですよね。工事現場まで真っ暗いヒューム管の中にろうそくを持って遊びに行ったんです。暗くて、アップダウンもあります。だけどもろうそくを持って入れちゃって。丸いから絶対に壁にぶつからない。

若い人たちは豊川用水が当たり前になって。豊川用水の水はやっぱり上流部からきているわけで。上流部の人たちは移住もあっただろうし、いろんな形で犠牲も強いわけだけだから、こちらの方に水を送ってもらっているということで、そういったもののありがたみというか、その歴史をやっぱりもっと知ってもらっていかないと、空気のように当たり前だと思っている世代になっていると思うんですよ。ぜひその辺は伝えていかなきゃいけないと思うんですけどね。

地震なんかで災害を受けて、まだ食料はなんとかなる、3日食べなくてもいいけども、水っていうのはもう本当に毎日2リットルなり3リットル、これを失うわけにいかないから、やっぱり水は一番大事だと思うんですよ。

山田もとさんという児童文学者が『水の歌』って本を書いたんです。主人公の”おしま”が豊川用水が初めてできた時にバルブを開いたら、畑にザッと綺麗な水が流れて、その時にものすごく感動した。それは豊川用水がない時代から、豊川用水が初めて開かれて大きく変わったところで、彼女の感動を書いたんですね。主人公の”おしま”がまあ思わず感嘆の声を上げたというんですかね。
やっぱり何回も繰り返すんだけども、その時の水の感動とかが今では当たり前の中の日常生活にあるということを知っている者にとっては、やっぱり伝えていかなきゃいけないなということは思います。

これを聞いていただいた方が興味を持つきっかけになったらいいですね。

そうですね。ぜひ興味を持ってほしい。本当に自分たちの渥美半島の暮らしが伝わっていかない。総合的な学習をやっていた頃は教科書でやれないところをやっていた。いろんなことを教えてもらったんだけども、最後には今日をどうするか、の学習しか残らなかったんですよ。だけどそれも今やらなくなっちゃって。総合的な学習がなくなって、子どもたちに渥美半島の良さとか、そんなものが語られなくなって、他所から来た人にいいですねと言われても、そうかな、そんなもんじゃないですよというようなことになってしまっているんですよね。

田原市で一番好きなところは?

僕は表浜に育ってるもんですから、太平洋の砂浜と崖のね、あの景色がすごく好き。ずっと自分の原風景でもあるし、それを守っていってもらいたいなということは思っています。それが自分の今までやってきた地域経営のベースにもなっているもんですから。