料理の話//Stories about Cuisine

NAKAGAWA Miyoko

画像タップでインタビューを聞くことができます。

中川美代子

1938年、古田地区生まれ。1983年に生活改善グループ「輝きネットあつみ」の会長を務める。JA愛知みなみ初代女性部長。今は友達とグランドゴルフを楽しむ日々。好きな食べ物はハゼの昆布巻。

田原市古田町の出身です。最初は県の普及センターの関係で、生活改善グループというのがあったんです。それの渥美郡の会長を昭和58年にやりました。

それから昭和50年度から農協夫人の地元の代表として出て、昭和60年の時に渥美町の会長をやらせていただき、それから平成9年に渥美町農協の女性部長として2年間勤めさせていただいた。それから先は平成13年に渥美、赤羽根、田原、福江が合併し、”JA愛知みなみ”になりました。その時の初代の女性部長をやらせていただきました。今現在は渥美町の助け合いの会員としてボランティアをやっております。長い間生きてきましたので、ずーっと私も農業やってたので。兼業農家で一人で頑張っておりました。

農業としては何をされていましたか?

豊川用水前の農業の形態ですね。芋、麦、大根とか、水のいらないもの。豊川用水が来てからは施設園芸がすごく盛んになって、私も施設園芸で電照菊をやっておりました。
周りでも菊を作る人が多かった。大根も下漬けを農家がして、それを業者に出荷して、業者が味付けして販売していたので、下漬けをみんなやってたんですけど、すごく重労働で、そういうのも全部体験しております。

主人が平成29年に亡くなりましたので、それから農業をパッと辞めて、グループでグランドゴルフをはじめて、お天気のいい日は地元の漁協の土地にゴルフ場を皆で作ったので、お昼から毎日遊んでます。
それと皆さんと一緒にいつもコミュニケーションをとって、だからうちにはほとんどおりません。そういう生活をしております。とても幸せですね。

次は子供の時、昔の食文化についてお話聞きたいです。

母親がとても料理が好きな人で、皆さんに奉仕することが好きだったので、それで私も母親について行って、皆さんと一緒に料理を学ばせてもらったりしていました。その関係で郷土料理も後世に伝えたいということで、小学校とか中学校とか高校に講師としてグループで出かけております。

子供の頃で覚えている風景はありますか?

風景ねぇ。私は海岸の近くに住んでいたので、潮が引くとずっと藻がいっぱい生えていて、その頃靴もなかったので素足で藻の上を歩いていくと「あ、硬いものに当たったなぁ」と思っているとそれがカニだったりして。
カニも素手で掴んで、ハサミで挟まれない位置をちゃんと確認して掴んだりしたのが今一番記憶に残っております。今そういう光景はないので、13号台風の関係で防波堤ができちゃったので、それからもう形態が変わってしまった。
終戦後何もない時でも海の近くだったので魚とかカニとか貝とか何でも獲れましたのでそういうタンパク質には不自由しませんでした。

子供の頃の地元の農業や水の利用状況はどうだったか。

その頃は雨を待って作物を作っていたので、雨が近くなるかなと思うと芋台を作って、芋のツルを縁の下の暗いところに置いておくと自然と発芽してくるので。そういう生活をしていました。本当にお天気と予想だから、学校へ行っていても雨が降ると芋植えだから休めと。小学校の時そうして仕事もしました。冬になれば麦踏み。ただ麦を蒔いただけだと弱い芽が出るだけなので踏みつけて痛めて、分けつさせて。たくさんそういうのをやりました。裸足で「飛ばしていけかん」って叱られながら丁寧に、踊りみたいに、カニの横歩きで。そういう生活をしていました。

幼少期や昔の田原市では、日常的にどんなような料理が食卓に並んでいましたか?

八杯汁とか。あの頃は麦と芋しか作ってなかった、水田が少なかったので。お米が少ないために小麦粉を使ったうどんとか、じょじょ切りとかそういうのが発展したと思います。八杯汁によく似たものにじょじょ切りの麺を入れて、醤油仕立てで主菜として食べていました。

海の近くに住んでいたので常に魚料理が多かったです。肉はほとんど食べなかった。豚を各家庭で飼ってたんですけど、それを出荷した時だけにしか手に入らなくて、だから肉はほとんどなく、魚中心で。
魚は自分で捌いて、イワシの骨を抜いて潰して野菜を混ぜて、イワシの団子汁とか、そういうのが冬の暖かい惣菜になります。

子供の頃の一番大好きな食べ物、料理は何でしたか?

ハゼの昆布巻きです。大きなハゼを昆布に巻いて、他のものは使わなくて、ただハゼと昆布だけでじっくり煮込んで、骨すら全部食べられる、そういった料理が一番好きでした。

地域特有の食材や保存方法などを当時の工夫について教えてください。

たくあん漬けとか、それから金山寺味噌とか、長い間保存できないけど常備食材として漬物もよく作りました。あらめ(海藻)と落花生の煮物とかそういうのがみんな保存食。摘果メロンの粕漬けとか。アールスメロンの大きくなる前のを摘果する、それを粕漬けにしたり、そういうのもしておりました。

豊川用水以前の郷土料理にはどんなものがあるのでしょうか。

八杯汁とか煮かけうどんとか、野菜の煮付けとかあらめと落花生の煮物とか、そういう料理です。

八杯汁って?

一つの豆腐で8人が食べられるというような言われがあって、八杯汁というんですけど。大根に人参、里芋そういうのを全部煮込んでおつゆ仕立て。それを行事食に使っていた。お葬式の行事食。あの頃はみんなお手伝いするんです。だからそういう時にお昼ご飯に八杯汁をふるまっております。味付けは醤油です。

他の調味料は?

ここらへんでよく使うお味噌だね、お味噌はみんな自家製味噌を作ってる。戦前も作っておりましたけど、今現在もずっと私は麹を作って、それから味噌を作ってます。だから市販の味噌は一切食べていません。
味噌は大豆と米麹だけです。それとお塩だけ。いろいろな味噌を作りましたけど、やはり何を混ぜても一番単純なやつの方が食べやすいので、大豆と麴だけの味噌。麹も金山寺麹という麦の麹があるんですけれど、それを使うとやっぱりコクがある。ちょっと色が黒くなる。米麴だときれいな色です。ドロドロした味噌汁じゃなくて、おすましみたいな味噌汁、それがさっぱりして美味しい。

じょじょ切りについても教えてください。

じょじょ切りはね。小麦を練って、お湯を沸かして茹でて、その中に味付けした小豆を入れるだけの単純なおやつです。名前が珍しいけど、普通のおしるこなんです。

行事食について

亡くなった方のお年忌、それがあると皆さん親戚同士集まって。あさりの押し寿司とか、手作りのお寿司を作って親戚に配っていた。あさりがこちらの特産品なので、もうふんだんに使ったあさり寿司。都会では貴重なんだけれど地元ではアサリはそんなに。私なんかもう子供の時からアサリはいっぱい食べていたので、アサリは見たくもないと思っていたんだけど、この地域に来てからはアサリがないので貴重な食材になりました。子供の時は潮が満ちてくるとアサリが目を開くというね。それに麦わらを差し込んでシュッと引っ張ればアサリが取れてくる。それぐらいアサリがいっぱいありました。

温暖化であさりがすごく貴重になったけど、本当に毎日またアサリかって言うぐらいアサリがありました。
あさりせんべいってあるでしょ、田原市の。でも私たち子供の時は自分で作ってた。小麦粉を練って、あさりを生むきして、焼く機械があって。「あさりせんべいの原点は私だよね」って言ってるぐらいやってました。

魚の保存について

塩漬けにしたりみりん漬けにしたり、それから干して。今は冷凍庫があるので、ほとんどみんな冷凍にして、いつでも食べられます。食材はいいところです。いいところに住んでおります。

お正月の時も何か特別の料理がありますか?

もう野菜をいっぱいいっぱい大きな鍋に煮込んで、それを温めて食べてました。女の人が料理に携わる時間がないように、出来上がったものを温めて食べる。三日間はお雑煮。お餅を煮て神様や仏様にお飾りして、あと夜は最初に煮たお節料理だよね。

豊川用水の整備後、田原市の食文化にどのような変化があったと感じますか?

施設園芸がすごく盛んになったので、そういったものを使った料理が増えました。前は根菜類が多かった。今はキャベツ、レタス、セロリとか、洋菜がいっぱいあるので、そういう風に移行していたと思います。それと肉と野菜だよね。前々は魚主菜だったのがほとんど肉。魚介類が少なくなったので、そういう変化ぐらいしかないと思います。

輝きネットあつみで取り組まれている食文化の継承活動について教えてください。

愛知輝きネットが主催で、技人というのを認定しているんですけど、その人たちが渥美農業高校、福江高校、成章高校の3つの高校に1年に1回ずつ郷土料理の伝承に出かけております。その前は、私は地元の小学校、中学校に依頼を受けて行ったことあるんですけど、今現在は行っていなくて、輝きネットとしては、高校と新規就農者や若い農業者の方たちを、普及センター主催で講師として行っております。

小学校でというのは総合学習みたいな?

そうそう。そういうやつ。赤羽根の若戸小学校というところに行った時は、黒米を作って、その黒米の粉でじょじょ切りを作ったり、子どもたちがみなさん一緒に作って食べたり、そういう子どもたちとのコミュニケーションもすごく楽しくやらせていただいたことがあったんです。子供たちも喜んで夢中になって、粉で真っ白になって作ってたんだけどね。今の子どもたち、食べたことない子たちに復活できるといいですね。

若者や子供に伝えたい、あるいは残しておきたいと考える田原市の郷土料理についてお聞かせください。

八杯汁とか、大つごもりのごっつお(大晦日のごちそう)とかそういうのです。
煮かけうどんとか、煮かけそばというのはこの地域しかやらないみたいで。私は娘婿が来た時にたまたま煮かけそばを作ったら、もうそれが気に入って。お店では食べられないので、明くる日に「お母さん夕べの残りありますか」って、「何です?」って言ったら「お蕎麦がもっと食べたい」って言われるぐらい、そう言って喜んで食べていただいたりとか。だからそういうのもいいかなと思って、それもやっぱり行事食で皆さんが大勢集まった時、法事だとかそういう時に作ったんです。やっぱりそれは味で伝えたい。レシピじゃなくて実際に食べて味で伝えたい。高校とかに郷土料理を教えに行ってもレシピは基本であとは味で覚えてくださいって。

好みがあるんだけど、こういう味ですよって言って、味を伝えて。だから、私たちのお料理は本当にええ加減。何もかも大きな鍋にポンと入れて。だから若い人にはそれはできないよね。やっぱり何グラムとかがないと。でも本当は味で伝えたい、それが一番の基本だと思います。

ハゼの昆布巻き、作ってみたいなぁ

ハゼの身も、本当に柔らかくふわふわに煮るの。
今みたいにガスじゃなかったので、炭火を起こしてそれを半日かけておくとか、もうストーブができてからは、石油ストーブの上にのせて、気長に煮詰まるまで。そうすると、本当に昆布も柔らかくてすごく味が染みて美味しいです。だからお店で売ってる昆布巻きは本当に味気なく感じちゃって。

でもね、それを食べてくれる人が今はいなくなったので、寂しいです。家族が少なくなっちゃったから。私も兄弟8人いたので、すごく大きな鍋で、本当に親は一生懸命作って、それをみんなで分け合って。大勢だから助け合いね。家族の絆が強かった。

子供の頃住んでた海岸、今すごく変わりましたか?

そう。みんな堤防ができちゃって。私たちの頃はこの大きな石で積んだ境があっただけで、海は自由だったので。父親が船大工だったので、私も子供の頃からちゃんと櫓を漕げて、洲まで行ってあさりを取ったりとか、そういうのもできます。
新しい船ができると浸水式があって、それに乗せてもらったりとか、もういろんな男のようなことをやってきました。楽しかったです。