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山田久夫
1938年、旧田原町生まれ。元渥美運輸取締役。豊川用水の工事にも運輸業で関わる。ほんとうに仕事が大好きな働き者。田原市で一番好きな場所はやっぱり伊良湖岬。
来年88歳、今87歳なのでね。僕自体は渥美運輸といって、物を運ぶ運送会社をやっていた。
運送屋っちゅうのはいろんな企業に出入りする。そうすると人手が足らんってことが起きるから、連れてきて、入れて、製造に携わる。そうすると、必然的に仕事も覚えるし、作ることも覚えるし。だから機械関係でもね、そういうものなんだよな。
僕はまあ器用だもんで、みな作っちゃう。
(開水路(コンクリートの水路など)の写真を見せながら)コンクリート、これは外寸で3メートル、内側に水が流れて、圧力が外に行くので、このコンクリートの上に鉄筋ですね、細い。それをグーッと回して、なおかつコンクリを吹き付けて、それで強度が出るというね。
内圧がだいたい7キロ。7キロということは、水を流すと水圧だけで大体8メートルぐらい上に上がっちゃう。それだから、鉄筋を巻いて、コンクリで絞めておかないと、みな爆ぜちゃうのね。
鉄のパイプで、中にコンクリを吹き付けて。なんでわざわざやるかというと、空気が入ると浮いちゃうんですね。
それで鉄材の中に、コンクリを。浮いちゃいかんから、外からも吹き付けて。そういう作りがしてあるんです。
お米ができるのは豊橋の汐川っちゅう川沿いの近くの人ぐらいしかお米は食べれないから、芋をふかして柔らかくなったやつをお昼に食べて過ごしとった。
弁当を持って家を出るけど、学校へ着く間に食べちゃうよ。
そうすると、お昼はなかったよ。お腹を空かせて晩帰ってきて、またお芋さんが出るみたいな感じですね。
水が入るようになったから、結果的に生活が豊かになった。
山田さんはどうして豊川用水の工事に関わることになったのですか?
ものを運ぶのに運送が必要なので、車を集めたり、人を集めたり、たまたまそういう係で車の配車だなんだやっとったもんで、若い時にね。自然となっちゃった。運送屋っちゅうのはいろんな企業に出入りする。そうすると人手が足らんってことが起きるから、連れてきて、入れて、製造に携わる。そうすると、必然的に仕事も覚えるし、作ることも覚えるし。だから機械関係でもね、そういうものなんだよな。
僕はまあ器用だもんで、みな作っちゃう。
いろんな会社に出入りするから、いろんな仕事を覚えてるんですね。そこは運送っていう仕事の特徴だったんですね。
そうそう。仕事が好きなもんですから、何事も言われた通りにはやらない方。どうしたら楽にできるか考えて。それでちゃんと考えて仕事をやってるから、熱が入っちゃう。豊川用水は地図では見られないんですけれど、どこにあるんですか?
地中にある。埋めて、ジョイントして。42号の下に埋めてある。なるほど、すごい。太平洋側の方が少し土地が高いんですか?
高い高い、一番高いところは、海抜60mあるのね。そっちを通せば、三河湾の方にも水が流せる?
そうだね。国道よりも中へ入ったとこへ。(開水路(コンクリートの水路など)の写真を見せながら)コンクリート、これは外寸で3メートル、内側に水が流れて、圧力が外に行くので、このコンクリートの上に鉄筋ですね、細い。それをグーッと回して、なおかつコンクリを吹き付けて、それで強度が出るというね。
内圧がだいたい7キロ。7キロということは、水を流すと水圧だけで大体8メートルぐらい上に上がっちゃう。それだから、鉄筋を巻いて、コンクリで絞めておかないと、みな爆ぜちゃうのね。
鉄のパイプで、中にコンクリを吹き付けて。なんでわざわざやるかというと、空気が入ると浮いちゃうんですね。
それで鉄材の中に、コンクリを。浮いちゃいかんから、外からも吹き付けて。そういう作りがしてあるんです。
一つのパーツはどのくらいの重さがありますか?
記憶にちょっとないもんでいかんだけど、だいたいね8トンくらいあると思います。運ぶのはトラックを使いましたか?
トラックではない。トレーラーってやつ。一回に2本ずつ積んで運びました。運転手は休みなしにどんどん運んで、空で取りに行って着いたら積んで、こちらには朝には必ずついとらないかんもんね。それでやって10年くらいかかった。豊川用水の工事中、難しいことは何でしたか?
改革しながら仕事をやっていくから、自然に自分たちができるように変わっていっちゃう。土を埋めるでも一緒だね。その当時は機械があったわけじゃないから、みんな積んできたやつを車からごろごろと降ろしちゃあやっていく。土を掘って、穴を掘ったとこへ降ろしていく。1日に何メートルぐらい進む感じでしたか。
20メートルいかんぞ。仕事っちゅうのは、熱が入ると好きになっちゃう。豊川用水の建設に関わった一人として後世に伝えたいメッセージや残したい教訓はありますか?
お互いに助け合ったことが仕事になっていく。手伝ってやるから自然と長い付き合いができる。鉄屋さんの中で仕事を手伝う。そうするとそれをまた運ぶ。それが自然に会社になったよね。どんどん、仕事が繋がっていってるんですね。
それはこの水があってキャベツとかができると、それも今度はトラックで運ぶものです。自然とまた仕事になる。工事の時もたくさんのキャベツとかフルーツとか、それもまた運ぶことになると思いましたか?
そうです、品物ができりゃ、運ぶものができるから。だから助けが欲しいときに手伝うと自然に仕事が増える。豊川用水の工事の前、子供の頃の生活と田原市の原風景についてお話できますか。
芋しかない。さつまいも、それしか採れなくて。子どもたちはみんな芋しか食っとらんかった。他の人たちからは当時は飲む水も足りなかったっていう話も聞きました。
うん、それもね。お米ができるのは豊橋の汐川っちゅう川沿いの近くの人ぐらいしかお米は食べれないから、芋をふかして柔らかくなったやつをお昼に食べて過ごしとった。
子供の頃はじゃあお腹が空いてた記憶?
そうですね。弁当を持って家を出るけど、学校へ着く間に食べちゃうよ。
そうすると、お昼はなかったよ。お腹を空かせて晩帰ってきて、またお芋さんが出るみたいな感じですね。
同じ渥美半島でも、お水がある場所とない場所とだいぶ差があったみたいですね。
当時は水が通らん家は本当に食べるものがなかった。水が入るようになったから、結果的に生活が豊かになった。