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山田政俊
1944年、野田地区生まれ。県内で教員になり、野田小学校で校長を勤め上げました。観光体験博覧会「たはら巡りーな」で体験メニュー「芭蕉も歩いた田原街道おしゃべりウォーキング」を開設。田原街道を歩くことの楽しさを伝えている。
私は山田政俊と言います。生まれたのはですね昭和19年、1944年の8月23日なんですが、時代は戦時中。しかも終戦前年ということで戦争の終わりかけだったようです。私自身は戦争の「せ」の字も全く知りません。私はこの野田というところで生まれて育ち、大学で県内の岡崎の学校へ行ったのですが、初めて田原から外へ出ました。そして学校を卒業して、仕事は学校の先生。教員を昭和42年からずっと県内でやってきまして、最後は野田小学校の校長をやって終わりました。その後ですね、20年経ちますけれど、田原街道を希望のある方に紹介しているところです。
今から30年ぐらい前なんですが、愛知県が県内の街道の調査を全県、計画的にやったようです。その一環として、豊橋から伊良湖の先端に続く道を担当しました。田原から伊良湖までの間の写真を撮ったり、人にいろいろ聞いたりして報告書にしました。その経験がありましたので、現在にこれを何とか生かすことができないかということで、「たはら巡り~な」*として田原街道を紹介しています。
* 田原市の体験プログラム集
田原街道はですね、調べてみますと、幕府や田原藩がこれを田原街道にするというふうに江戸時代に指定したものではないようです。
もともとこの名前をつけたのは、どうも明治に入ってからのようなんで、文献的にどこがどうだというようなことはあまりはっきりしてない部分がありました。専門家の方にも協力を得て作り上げた地図があります。
(地図を指しながら)これが豊橋で、東海道がこう通ってますね。東海道から分かれて、一度田原に向かって。ここに示したものが田原街道。太平洋岸を走っているのが伊勢街道。いわゆるお伊勢まわり。お伊勢さんへ行く道だったようですね。それでこちら伊勢街道。内海側が田原街道。田原街道の田原から伊良湖の間には歴史的に興味のあるところ、それから誰しもが知っておいた方がいいなというようなところがたくさん残っておって、それを写真と文章にしたものが報告書となっております。
ですから田原街道は使われていなかったかというと、街道そのもの、道そのものはあって、しかもこの半島の内海を通るこの道が一番人通りが多かった。人の通行量は、多分かなりあったんじゃないかなと思いますね。
子供の頃、うちには農耕用、今で言えばトラクターや耕運機にあたる牛を飼っておりました。それから自家用の卵を取るニワトリもいました。ヤギもいました。
それから子取りといって、豚にたくさん赤ちゃんを産ませて、大きくなったらそれを売って、お金を儲けるというので豚も飼っていました。そういうような家で、家自体は田んぼもたくさんありました。それから畑もたくさんありました。当時はどこの子もですね、6年生ぐらいまではあまり手伝いはしなくて、一生懸命遊びほうけていました。
ですから今よりも子どもたちがたくさんいて、どこのうちにも子どもがいるようなそういう時代でしたね。学校を帰ればすぐ外に飛び出して、みんなで遊ぶ。どんなことをして遊ぶかというと、鉄砲玉で打ち合うとか、海に行って魚釣りしたり。遊びは家の外で。仲間で巡泥とか言って、巡査と泥棒ごっこをやったり、暗くなるまで遊んでいましたね。
まだテレビはありませんでした。小学生ぐらいまでは遊んでおりましたけれど、中学生になるとうちの手伝いをして、遊ぶというよりも仕事を手伝っていました。力仕事をするときに牛の前を掴んだりしておりましたし、忙しい時には先ほど言ったように遊んでいることもありますけれど、田植え、それから畑へ行っては、鍬をつく。そういう手伝いも中学生ぐらいになったら、よくやるようになりましたね。
しかしうちは、おばあさんがわらぞうりをいつも編んでくれました。わらぞうりを履いて小学校へ通っていました。今でも忘れられないことというと、マラソン大会がありまして、そのマラソン大会にはどうしたわけか、わらぞうりを履いて出た覚えがある。
時代とともに、もっと早く田原へ出ようとした時には、いわゆる今でいうバイパスですよね。新しい道ができて、そしてその方が早く行ける、都合がいいということで、自ずと人通りが多くなって、かつて通っていたところが廃れてしまって、あまり通らなくなってしまう。そういう変遷というか移り変わりが、道全体にあったようです。
今、この田原街道を歩いてみて思うことはですね、今私たちは車で行き来しています。1日何回でも、あるいは1週間のうち何回でもこの道を行き来するのがこの渥美半島の人たちなんですけれど、やっぱり車でその道だけを通りますと、そこから見える景色といいますか、姿というものはほとんど変わらないわけですよ。
ところが道をたどってみますと、まず一つは景色が違う。こんなところもあるかなというところがあります。それから場所によっては道路が舗装されていないので、こんな風にして当時の人たちは歩いたかなと想像することがあります。
” 雪や砂 馬より落ちそ 酒の酔い “
この句を読んだところは、宇津江坂という山越えの場所があります。地区だと野田というところです。
当時はこの野田から向こうに道がなくて、すぐ海岸です。現在も残っているんですけれど、細くてしかも、いろは坂のようにうねっておりますので、ある意味で通りにくい。そんなところを通るよりも少し遠くても向こうを回った方がいい。ところがそこがですね、誠に今の日常とは違う景色です。風景です。環境です。そこに行きますと、頂上の両側に石垣が残っております。
多分当時の渥美半島の人たちは、この山を越して、そして田原に出て、豊橋へ出てというようなルートだったと思われます。文化的な観点からいきますと、俳句公園というのがありまして、芭蕉だけではなくて、この渥美半島で俳句を詠んだ方たちの句が飾られているところが一か所あります。
一番山に近いところを通る道と、すぐ下に一本道が走っている。さらにその下に現在の国道、さらにその向こうには一番広いバイパスが国道になっているんですけれど、今はそこをみんなが通っています。
それを一番上から見ることができるんですね。やっぱり時代の違い。だんだん下に下にと通りやすいところに道が移っていく。かつては集落といって、人が住んでいる所をつないでいった。ところが時代とともにもうそんなところを通らない。狭いところを通らなくてもっと広い道を作ろうということですよ。さらに、今は信号のあるほぼ直線の広い道になっております。
もう一つ、電車道が残っています。私たちが子供の頃呼んでいた道ですね。
電車道って何ぞやというと、今電車は豊橋駅から三河田原駅まで15分おきに行き来しております。
この電車道はですね、戦時中、陸軍の試砲場(※伊良湖射場)まで電車を引こうと目論見ました。その道がですね、田原からずっと伊良湖の手前に堀切というところがあるんですが、そこが最終の終着駅という計画で軌道敷が作られるんです。
ところが昭和17年だったと思うんです。戦争少し前にですね、途中まで作ったままで計画が頓挫しました。理由は鉄。鉄がもうなくなってしまって、そこに回すことができない。ただ、今は三河田原駅ですけど、その先、大久保というところまでは電車が運行されました。
その電車道はそのまま残っていたんですが、その道がバイパスという形で、現代の道として変身しました。それが所々にあります。
私が野田から向こうの海岸線に時代の道が残っていると言いましたけれど、そこへ行きますと、海岸線走るところ、一番下をですね、当時の県道が海岸のすぐ近くを走っている。その上にですね電車道が残っていた。
そしてさらにその上の方に当時の田原街道が残っていて、本当に人の通らない道がところどころ。木がないところからは海が見えます。すぐ下を見ると今も自動車がひっきりなしに国道を走っていて、昔の電車道の跡を広げたバイパスはここからは見えないですけれど、海岸ギリギリを3本の道が同時に走っていた。ここを通ることによって時代が読み取れるかなと。
渥美半島の中では、一番田んぼがたくさんあって、江戸時代の田原藩の米どころで、藩は野田を大事にしとったようですね。
「霞たなびく野田の里、馬草の浜の波、静か」ですから。
菜の花畑を核とするんだけど、菜の花だけじゃなくて、やっぱりこの渥美半島の歴史とか、人々の暮らしの様子、昔から残っている歌とか、そういうものもまとめて、総合的に紹介しちゃあどうかなぁ。花は見たくはないけど歌は聞きたい。花は見たくはないけど食い物は食いたいという人もいる。それから昔の遊びとかそういう風なものも紹介するといいんじゃないかなと思います。
変な話ですけど、昨今SNSが話題になっておりますけどね。負の面はあるでしょうけれど、プラスの面を今風に生かすと爆発的にやれるんじゃないかな。今、外国の方々、未だかつてない人数が日本へ押し寄せとると言うけれど、この渥美半島、田原にはですね、あまり外国の人たちが観光として来る姿を見たことがありません。やり方によっては東京だとか鎌倉だとか、そうした観光地へ押し寄せている人たちの次の見学地と言いますか、東京とか大阪、いわゆるよく知られたところに飽きてしまう、もっと違った日本が体験したいという時がそのうちに来るじゃないかなと思うんで。
人は住んできたんだからその住んできた人の体験といいますか、小さい子供の頃の話をしましたけれど、菜の花畑の一角にですね、そういう昔の渥美半島の暮らしを体験できるようなものだとか、人との接触の面白さっていうものを何か確保できたらと思うんです。
小学校にですね、毎年授業に行ってるんですよ。明治初期、河合為治郎という村長さんをはじめ幹部の人たちが音頭をとって、耕地整備を他に先駆けてやって、表彰されてるんですね。それを今教えております。どうしたら4年生の小さな子に当時の様子を伝えることができるか。まあ四苦八苦しながらいつもやってるんですけれど、そのためには教室におっただけじゃダメなんで。教室から出て、田んぼを見て歩いたり。今度は野田の昔のことをよく知っているおじいさんの家へ行って話を聞くことになっているんですけどね。菜の花畑で、菜の花の紹介だけじゃなくて、そういう紹介もできる。菜の花見たらあそこへ行ってこやとか、そういう案内の核になる。
少しでもいいから渥美半島のそのものを経験して、今の日常とは違った体験をして帰られるということをしたい。やっぱり東海道は地域の人たちが大事にしているなぁということを思います。それに比べれば田原街道は、看板は多少出ますけれど、その道が歴史的に重要であったとか、そういう意識まではまだここにおる人たち自体がなっておりません。
今から30年ぐらい前なんですが、愛知県が県内の街道の調査を全県、計画的にやったようです。その一環として、豊橋から伊良湖の先端に続く道を担当しました。田原から伊良湖までの間の写真を撮ったり、人にいろいろ聞いたりして報告書にしました。その経験がありましたので、現在にこれを何とか生かすことができないかということで、「たはら巡り~な」*として田原街道を紹介しています。
* 田原市の体験プログラム集
田原街道はですね、調べてみますと、幕府や田原藩がこれを田原街道にするというふうに江戸時代に指定したものではないようです。
もともとこの名前をつけたのは、どうも明治に入ってからのようなんで、文献的にどこがどうだというようなことはあまりはっきりしてない部分がありました。専門家の方にも協力を得て作り上げた地図があります。
(地図を指しながら)これが豊橋で、東海道がこう通ってますね。東海道から分かれて、一度田原に向かって。ここに示したものが田原街道。太平洋岸を走っているのが伊勢街道。いわゆるお伊勢まわり。お伊勢さんへ行く道だったようですね。それでこちら伊勢街道。内海側が田原街道。田原街道の田原から伊良湖の間には歴史的に興味のあるところ、それから誰しもが知っておいた方がいいなというようなところがたくさん残っておって、それを写真と文章にしたものが報告書となっております。
江戸時代にはこの道はあまり使われていなかった?
江戸時代この道がなかったかというと、そうじゃないんです。当時はこの渥美半島から豊橋、昔で言えば吉田に行って江戸へ行く人もあれば、大阪に行く人もあって、したがってここはもちろん道があります。当時の主要道路、一番賑やかでよく人が通るところ、それを明治になってから田原街道と名付けたのだろうと思います。ですから田原街道は使われていなかったかというと、街道そのもの、道そのものはあって、しかもこの半島の内海を通るこの道が一番人通りが多かった。人の通行量は、多分かなりあったんじゃないかなと思いますね。
幼少期にはどんなような環境で育ちましたか?子供の頃で覚えている風景はありますか?
私の家は農家、別の言葉でお百姓さんでした。子供の頃、うちには農耕用、今で言えばトラクターや耕運機にあたる牛を飼っておりました。それから自家用の卵を取るニワトリもいました。ヤギもいました。
それから子取りといって、豚にたくさん赤ちゃんを産ませて、大きくなったらそれを売って、お金を儲けるというので豚も飼っていました。そういうような家で、家自体は田んぼもたくさんありました。それから畑もたくさんありました。当時はどこの子もですね、6年生ぐらいまではあまり手伝いはしなくて、一生懸命遊びほうけていました。
ですから今よりも子どもたちがたくさんいて、どこのうちにも子どもがいるようなそういう時代でしたね。学校を帰ればすぐ外に飛び出して、みんなで遊ぶ。どんなことをして遊ぶかというと、鉄砲玉で打ち合うとか、海に行って魚釣りしたり。遊びは家の外で。仲間で巡泥とか言って、巡査と泥棒ごっこをやったり、暗くなるまで遊んでいましたね。
まだテレビはありませんでした。小学生ぐらいまでは遊んでおりましたけれど、中学生になるとうちの手伝いをして、遊ぶというよりも仕事を手伝っていました。力仕事をするときに牛の前を掴んだりしておりましたし、忙しい時には先ほど言ったように遊んでいることもありますけれど、田植え、それから畑へ行っては、鍬をつく。そういう手伝いも中学生ぐらいになったら、よくやるようになりましたね。
子供の頃の思い出で印象深いものはありますか?
遊びの中でですね、今でも忘れないことがありましてね。夏にはヘビが今も出ますよね。ここのあたりの家はですね、今は瓦でできておりますけれど、当時は草屋と言って、屋根がだいたいどこに行っても藁でした。白川郷の小さいやつだね。あれがここら辺りの通常の私たちが子供の頃に見る風景でした。夏にうちの天井からですね、蛇がバタッと下へ落ちてきたりしましたけれど。遊びの中でヘビを掴んで、皮を剥いだり。2匹掴んで結んで田舎の細い道のこっちとこっちで縄跳びをしたことがある。そういうことは頭から消えません。子供の頃、靴はどうしてました?
もちろん靴を履いて学校へ行きました。しかしうちは、おばあさんがわらぞうりをいつも編んでくれました。わらぞうりを履いて小学校へ通っていました。今でも忘れられないことというと、マラソン大会がありまして、そのマラソン大会にはどうしたわけか、わらぞうりを履いて出た覚えがある。
田原街道の歴史、文化的な役割と状況について、田原街道は古くから多くの旅人に利用されてきたとのことですが、どのように使われていたのか教えてください。
当時の人が行き来した主要道路、中心の道だったようです。ですから時代とともに少しずつ道が変わったようです。時代とともに、もっと早く田原へ出ようとした時には、いわゆる今でいうバイパスですよね。新しい道ができて、そしてその方が早く行ける、都合がいいということで、自ずと人通りが多くなって、かつて通っていたところが廃れてしまって、あまり通らなくなってしまう。そういう変遷というか移り変わりが、道全体にあったようです。
今、この田原街道を歩いてみて思うことはですね、今私たちは車で行き来しています。1日何回でも、あるいは1週間のうち何回でもこの道を行き来するのがこの渥美半島の人たちなんですけれど、やっぱり車でその道だけを通りますと、そこから見える景色といいますか、姿というものはほとんど変わらないわけですよ。
ところが道をたどってみますと、まず一つは景色が違う。こんなところもあるかなというところがあります。それから場所によっては道路が舗装されていないので、こんな風にして当時の人たちは歩いたかなと想像することがあります。
ここから豊橋まで歩くのはどのくらい?
歩いたことはないですけれどね、私がこの「たはら巡り~な」で案内しているところは朝8時半、三河田原駅出発。田原の城下町の出口からですね、一路伊良湖までではないですけれど、西に向かって歩きましてですね、ところどころ見学し、休憩し、3時ぐらいにですね、旧渥美町に泉というところがあるんですけど、そこの泉小学校の近くまでたどり着いて、そこからバスに乗って引き返してくると、だいたい4時ぐらい。歩き方も一つはありますよね。他のものは一切見ずトコトコ歩けば、吉田豊橋を出発して、当時の場所で言えば、保美ぐらいまではきっと来ただろうと思うんですね。1日で。田原街道が持つ文学的な意味や価値について、ご存知の範囲で教えてください。
文学になるかどうかは分かりませんけれど、松尾芭蕉の詠んだ句です。” 雪や砂 馬より落ちそ 酒の酔い “
この句を読んだところは、宇津江坂という山越えの場所があります。地区だと野田というところです。
当時はこの野田から向こうに道がなくて、すぐ海岸です。現在も残っているんですけれど、細くてしかも、いろは坂のようにうねっておりますので、ある意味で通りにくい。そんなところを通るよりも少し遠くても向こうを回った方がいい。ところがそこがですね、誠に今の日常とは違う景色です。風景です。環境です。そこに行きますと、頂上の両側に石垣が残っております。
多分当時の渥美半島の人たちは、この山を越して、そして田原に出て、豊橋へ出てというようなルートだったと思われます。文化的な観点からいきますと、俳句公園というのがありまして、芭蕉だけではなくて、この渥美半島で俳句を詠んだ方たちの句が飾られているところが一か所あります。
近代化と田原街道の変遷、明治時代以降田原街道はどのように変遷していったのか?陸軍の施設の設置や道路の整備状況について地元での教訓や影響について教えてください。
これは野田というところです。そしてこのもう少し田原に近いところが、大久保という地区です。田原から野田へ向かって歩いていきますと、道が3本ある。一番山に近いところを通る道と、すぐ下に一本道が走っている。さらにその下に現在の国道、さらにその向こうには一番広いバイパスが国道になっているんですけれど、今はそこをみんなが通っています。
それを一番上から見ることができるんですね。やっぱり時代の違い。だんだん下に下にと通りやすいところに道が移っていく。かつては集落といって、人が住んでいる所をつないでいった。ところが時代とともにもうそんなところを通らない。狭いところを通らなくてもっと広い道を作ろうということですよ。さらに、今は信号のあるほぼ直線の広い道になっております。
もう一つ、電車道が残っています。私たちが子供の頃呼んでいた道ですね。
電車道って何ぞやというと、今電車は豊橋駅から三河田原駅まで15分おきに行き来しております。
この電車道はですね、戦時中、陸軍の試砲場(※伊良湖射場)まで電車を引こうと目論見ました。その道がですね、田原からずっと伊良湖の手前に堀切というところがあるんですが、そこが最終の終着駅という計画で軌道敷が作られるんです。
ところが昭和17年だったと思うんです。戦争少し前にですね、途中まで作ったままで計画が頓挫しました。理由は鉄。鉄がもうなくなってしまって、そこに回すことができない。ただ、今は三河田原駅ですけど、その先、大久保というところまでは電車が運行されました。
その電車道はそのまま残っていたんですが、その道がバイパスという形で、現代の道として変身しました。それが所々にあります。
私が野田から向こうの海岸線に時代の道が残っていると言いましたけれど、そこへ行きますと、海岸線走るところ、一番下をですね、当時の県道が海岸のすぐ近くを走っている。その上にですね電車道が残っていた。
そしてさらにその上の方に当時の田原街道が残っていて、本当に人の通らない道がところどころ。木がないところからは海が見えます。すぐ下を見ると今も自動車がひっきりなしに国道を走っていて、昔の電車道の跡を広げたバイパスはここからは見えないですけれど、海岸ギリギリを3本の道が同時に走っていた。ここを通ることによって時代が読み取れるかなと。
渥美半島菜の花浪漫街道としての取り組みについてお話を伺いたいです。
田原街道沿いに菜の花畑が何か所かあります。大久保でも見られますし、野田へ入ってからも見ることができて、季節感を醸し出しています。私も、先ほど言ったように、昔の道を歩きますとですね、普段よりもどちらかというと高いところを通る時があるんですね。大久保というところがあって、そしてその山沿いを回ってきますと、野田全域がですね、ほぼ眼中に収まるところがあります。渥美半島の中では、一番田んぼがたくさんあって、江戸時代の田原藩の米どころで、藩は野田を大事にしとったようですね。
「霞たなびく野田の里、馬草の浜の波、静か」ですから。
菜の花畑を核とするんだけど、菜の花だけじゃなくて、やっぱりこの渥美半島の歴史とか、人々の暮らしの様子、昔から残っている歌とか、そういうものもまとめて、総合的に紹介しちゃあどうかなぁ。花は見たくはないけど歌は聞きたい。花は見たくはないけど食い物は食いたいという人もいる。それから昔の遊びとかそういう風なものも紹介するといいんじゃないかなと思います。
変な話ですけど、昨今SNSが話題になっておりますけどね。負の面はあるでしょうけれど、プラスの面を今風に生かすと爆発的にやれるんじゃないかな。今、外国の方々、未だかつてない人数が日本へ押し寄せとると言うけれど、この渥美半島、田原にはですね、あまり外国の人たちが観光として来る姿を見たことがありません。やり方によっては東京だとか鎌倉だとか、そうした観光地へ押し寄せている人たちの次の見学地と言いますか、東京とか大阪、いわゆるよく知られたところに飽きてしまう、もっと違った日本が体験したいという時がそのうちに来るじゃないかなと思うんで。
人は住んできたんだからその住んできた人の体験といいますか、小さい子供の頃の話をしましたけれど、菜の花畑の一角にですね、そういう昔の渥美半島の暮らしを体験できるようなものだとか、人との接触の面白さっていうものを何か確保できたらと思うんです。
小学校にですね、毎年授業に行ってるんですよ。明治初期、河合為治郎という村長さんをはじめ幹部の人たちが音頭をとって、耕地整備を他に先駆けてやって、表彰されてるんですね。それを今教えております。どうしたら4年生の小さな子に当時の様子を伝えることができるか。まあ四苦八苦しながらいつもやってるんですけれど、そのためには教室におっただけじゃダメなんで。教室から出て、田んぼを見て歩いたり。今度は野田の昔のことをよく知っているおじいさんの家へ行って話を聞くことになっているんですけどね。菜の花畑で、菜の花の紹介だけじゃなくて、そういう紹介もできる。菜の花見たらあそこへ行ってこやとか、そういう案内の核になる。
少しでもいいから渥美半島のそのものを経験して、今の日常とは違った体験をして帰られるということをしたい。やっぱり東海道は地域の人たちが大事にしているなぁということを思います。それに比べれば田原街道は、看板は多少出ますけれど、その道が歴史的に重要であったとか、そういう意識まではまだここにおる人たち自体がなっておりません。